お知らせ

Bさん(Durham University , Mathematics / Fettes College出身)

実に3年振りとなる日本にて、このレポートを書いています。一時帰国のためのフライトがヒースローから離陸した瞬間、興奮よりも寂寥と感傷が勝ったのはこの5年の間に自分がイギリスにすっかり根を差した証でしょうか。
久しぶりの日本は - 天気こそ例年より大人しいようで助かっていますが - 慣れないことが多くて戸惑いばかりです。特に顕著なのは情報の多さとでも言いましょうか、どこにいても常に何かを突き付けられているような感覚があることです。電車に乗れば四方は広告や映像で埋まっているし、あちこちから宣伝やキャッチコピーの文字が煩く叫んでくるし、店に近づけば次々にカスタマーサービスが襲ってきます。街中に出てそんなことが繰り返されるうちに「もう少しそっと放っておいてほしい…」という気分に陥りました。気にならなくなるまでの時間の問題なのかもしれませんが、以前はあまり気付かなかったこうした点がとても目立って見えます。ある種の適当さと無関心さに満ちているイギリス社会がそろそろ懐かしくなり始めた今日この頃です。

大学3年目となった今年はアカデミック方面以外はかなり静かな一年でした。唯一の特筆すべきイベントは、大学の友達4人と家を借りてシェアハウスをしたことでしょうか。イギリス5年目にして初めて学校から用意された部屋に住むのではなく自力で生活を立てることを学び、家の中での対人関係に苦労したりしながらも大きな問題なく最後まで走り切りました。しかしやはり誰かと一緒に住むのはそれ自体が相当なエネルギーを消費することで、自分には全く合っていないと再認識しました。これに懲りて新年度からは一人暮らしの物件を借り、また新しい生活スタイルに挑戦することになります。
一方、数学に充てる時間は増すばかりです。今年は学部1年生の課題を採点する仕事を始めたり、UK Integration Beeの本選へ2年連続となる出場をしたりと今までやってきたことをベースに少しずつ出来ることを増やしていっています。また3年生ともなると大学で学ぶ内容もかなり手強くなってきており学年末の試験は過去2年よりだいぶ苦戦しましたが、何とか自分の中での及第点レベルの結果は出せたのでひとまず安心です。
そんな中での今年最大の成果は、London Mathematical Society(LMS)が出しているUndergraduate Research Bursaryに採択されたことです。このbursaryは全国の大学に所属する学部2-3年生の夏季研究を対象とした助成金で、この類のものとしての知名度と支援額の高さは国内で一、二を争います。来年の博士進学を目指す中で、研究とはどういうものか経験する機会が得られたのと同時にようやく成績以外の目に見える実績が出せたことは大きな前進です。

さて、ここ数年間の社会の変遷を語る上で避けられないトピックがAIの発達です。2022年12月の初代ChatGPTのリリースに始まり、AIは早くも多くの人にとって当たり前のものとして受け入れられつつあります。一方でその台頭は既存の価値観や社会の仕組みをひっくり返す影響力も持っており、現時点でも勢いを止めることなく進むAI開発は多方面に確かな不安定さをもたらしています。
個人的な話をすると、私自身はAIが出回り始めた当初からその使用に関してかなり保守的な考えを持っており、身の回りを次々浸食していくこの新しい存在からできる限り距離を置くようにしてきました。今でも課金なんてもちろんしてないですし、AI由来のサジェスト機能の類はすべてオフか無視、今年に入ってからの(能動的な)使用回数は片手で数えるほどです。AIが優れた技術であることは十分承知の上ですし使わないことによって非効率や不利益を強いられる場面があることも理解はしていますが、少なくとも大学卒業まではこの方針を曲げるつもりはありません。今回のレポートの最初の段では、この信条への理由付けとしてAI普及に対して私が抱いている危機意識を言語化していきたいと思います。ここには「便利なんだから使っていけばいいじゃん」「もうみんな使ってるからそういうもの」という考え方に少しのブレーキを掛けてみてほしいという思いも乗せています。
そして、この文章を書いている2026年9月は数学界にとって歴史的な月でもありました。世界で最も注目されていた未解決問題の一つがAI主体の探索によって解かれてしまったのです。その発表を発端に、数学者の存在意義・数学の研究や発見がもたらす価値・世間一般の数学への認識観といった今まで曖昧にされてきたテーマに注目が集まり様々な議論が飛び交うようになりました。アカデミアの世界はAIの登場によって特に急激な変化を経験している分野の一つですが、数学について言えば今や学問としての在り方そのものの再定義すらも迫られている状況です。数学を学び将来も数学に携わることを目指す者として、今の自分から見えている景色と今後の数学界がどうあるべきなのかという考えをまとめるのが二つ目のテーマです。
三段目では私個人の話として、この夏に取り組んだ研究プロジェクトの経験なども交えつつ将来の進路や自分が生み出せる価値について少し触れて全体の結びとしたいと思います。

今回はとりわけ思うところがたくさんあるトピックなこともあり、自分が考えていることを余すことなく書いておこうと頑張った結果少し長くなってしまいました。正直自分でもまだ消化しきれていない考えも多いですが、できる限りの伝える努力はしているので何かしら読み取れることや拾えるアイディアがあるならば幸いです。是非最後までお付き合い願えればと思います。

1. 人間の思考について(反AI派としての主張)

誰でもアクセスできる対話型のAIが登場して4年が経とうとしています。その間にAIは文章生成・画像生成(動画生成)に始まり、コーディングや事務処理などのタスクを投げられ、簡易検索や学習のツールとして使われ、果ては疑似人間として人々の対話(相談)の相手にもなってきました。何故○○にAIを使うのかと誰かに問うならば、その対象が何であったとしても大方の答えは「カスタマイズされた要望に高精度で素早く応えてくれるから」という一言に集約されるでしょう。
専門知識を学ぶことなく(或いは特定のスキルを磨くことなく)それらしいものが作れる。人に依頼するお金も自分で取り組む手間もかけずにタスクが完了する。自力では数時間かかる情報の収集や取捨選択がいくつかのプロンプトを打ち込むだけで終わる。
なんて便利な時代なのでしょうか。苦労もせずに成果を出してまるで自分が何者かになったかのような気分をお手軽に味わえるのって素敵ですね。それから時間を節約して次のやりたいことに早く進めるのもいいですよね、どうせそれもAIに入れて処理するだけのものなんでしょうけど。
さて、こうした効率化/労力の削減は一般的に歓迎されるものとして触れられますしAIについての話題といえば多くがそのポジティブな面にフォーカスしがちですが、もちろんその裏側にも語られるべきことは存在します。ここからは自分の考えるAIの負の側面について幾つか述べていくことにします。

私が最も問題視しているのはAIが思考という作業を代替すること、そしてそれに伴い人間の思考力が低下することです。思考力という言葉自体が一般的には曖昧な意味を持ちますが、ここでは「ある事象について非自明な結論を導きだす力」と定義してみます。例えば二つの選択肢から一つを選ぶこと・結果を見て原因を推定すること・明日の予定を立てることは思考力の産物ですが、同じ動作を何回も繰り返すこと・大きいものを見て「大きい」という感想を抱くこと・明確な区切りがないまま考えるのをやめることは思考力を使っていると言えません(あくまでこの定義においての話です)。
AIに頼る一番の不利益は、この思考というプロセスにかける時間が奪われることだと思います。時間を節約するということはアウトプットの量だけを見ればポジティブに捉えられますが、一方でそれは十分考え抜く前に結論が外部の手によって出されてしまうことも意味します。脳の回路は定期的に更新されないと廃れていくものですから、最後まで考える習慣をやめればその力は失われてしまいます。教育の現場でしばしば「問題を与えられてすぐ答えを見ようとするのは良くない」と教えられるのも同じ理由からでしょう。答えを自力で出すためには練習が必要であって幼い頃にその機会を奪ってしまえば思考力は育たないのです。しかし、子供相手にそんなロジックを展開しておきながら今まさに自分たちはAIを使って思考する手間をなくそうとしているのが現状ではないでしょうか。
また、考えがあちこちに枝葉のように伸びるからこそ触れられるものがあります。以前は全く分からなかったことを少し時間を置いてもう一度学んでみるとスッと理解できるなんていう経験は誰しもあるのではないでしょうか。自分が書いた文章でも後から見直すとまた違う考えが浮かぶし、数年振りに読んでみる本は一度目と確かに違う情緒をもたらします。こうした時間をかけて熟成する種類の思考が存在する以上、無駄な考えなんてものはないと思うのです。それを考慮せず「短時間=効率が良い=正義」という理屈を掲げて直線的な答えに飛びつくやり方を私は肯定できません。
さらに、思考の時間が減ることは個性が発現しにくくなることにもつながると思います。個性とはその人の価値観(=何を重要視するか、何を好むか)に大きく左右されますが、価値観が形成される過程とはすなわち反復思考ではないでしょうか。個人的な経験を基に言えば、自分の思考のパターンや癖に気付く機会は多くの場合「この考え方を前も通ったな」「自分が好きなこれとあれは似ているな」といった記憶のオーバーラップと共通点の抽出です。そのためには一つ一つの思考を腑に落ちるまで十分な時間をかけて嚙み砕くプロセスが必要なはずで、次々流れてくる情報を右から左に回すだけの思考の仕方が身についてしまうと結果としてその人固有の内面の特徴に気付く機会が減ってしまいそうです。
語弊を恐れずに簡単にまとめると、思考がAIによって代替されることは思考力そのものを次第に人間から奪い、単純で浅い考え方とありきたりな薄っぺらい価値観を纏った存在を大量生産することになりかねないということです。こうした変化はすでにSNS等を通じたインスタント消費社会の到来によって起こっていると言えますが、AIのもたらす影響はその比ではないと思っています。

さて、ここまでの議論に対してすぐに飛び出してくるであろう反論は大きく三種類あります。
まず、AIを使わないと意地を張るよりも結果を生み出すことが優先されるべき場面もあるということ。仕事などで大量の情報を処理する必要があったり、今まで実現不可能だったことがAIによって初めて実装できるといった事例は確かにたくさん考えられます。そしてその意見には私も(しぶしぶながら)同意です。今問題としているのは「人間としてできるはずの能力がAIに頼ることで失われていく」ということなので、人間の可能性そのものを広げるAIの使い方や社会的な価値を生み出すものはそれなりに肯定的に見ることができます(ただし、そうした使い方が人間の自然な成長を阻害する場合もあるので注意したいところですが)。しかし一方で個人間のスキルの差をAIを使って埋めようとする行為、例えば素人による絵や動画・音楽などの生成は少し性質が異なるのでこの論が適用されるべきではないと思います。誰かができて自分ができないことを外力を借りてあたかもできるように振る舞うのは明け透けに言えばただの怠惰と現実逃避だと思っていますし、それに付随する大局的な価値もほとんどの場合ゼロなので好意的になれません。個人で満足するだけの目的ならまだましとして、あまつさえ公のプラットフォームでそうした活動をしているのを見かけると眉をひそめてしまいます。

次に、AIを使うことが思考力を完全に妨げることにはつながらないという指摘です。AIといっても魔法の道具ではないのでインプットをする必要もあれば出てきた答えは完全でないこともままあります。最近では「AIの使いこなし方」なんて銘打つ情報商材も増えてきていますが、実際のところ使う側の技量次第でできることの幅が大きく変わることは間違いなく、一概にAI使用=思考停止という等式は成り立たないでしょう。
そんな意見に返して言いたいのは、0を1にする仕事、すなわち具現化の重要性です。頭の中にあるイメージを形に起こすというのは簡単なことではありません。だからこそそうした方面に秀でた人間は芸術家や発明家(最近では広くクリエイターとも呼ばれたりしますね)などとして名を馳せ社会で重宝されている訳ですが、程度の差こそあれ人は誰しも生活の中で0→1のタスクをこなしています。AIに頼ることで特に失われる思考回路はこの部分ではないでしょうか。一度立ち止まり「自分が求めている水準は何なのか」「その実現のためにはどうすればいいのか」と考えて試行錯誤の末に出来上がるはずものが、いくつかの曖昧なプロンプトによってそれなりの形で仕上がってしまいます。そこから自分の理想に近づけるために調節するのはまた次の仕事ですが、最初にアウトラインが提示されるという工程を経ることでバイアスが介在し創造性にどうしても制限がかかってしまう可能性は否めません。
さらに良くないと思うのは、自分が何を欲しているのかよく分からないまま「正解」に触れることである種の妥協/納得が生まれてしまうことです。私はAIに相談事をする人の大半はこの類だと思っています。心理テストなどの誰にでも当てはまるような一般的な描写を自分にぴったりの正確な結果であると錯覚する現象をバーナム効果と呼びますが、AIが作り出すものもそれに近いのではないでしょうか。所詮人間がLLMに入力する情報量なんて、脳の容量と比べると非常に限定的です。それを基に生成されるアウトプットがどれくらいオリジナル(=頭の中の理想)と符合しているかなんてたかが知れています。もちろん心理テストなんかよりはるかに精度は高いでしょうが、それでも自分の思い描く形に近づける努力もせずに完璧な結果が出てくると思いこんで満足してしまうのは大きな間違いだと思います。

そして最後に、今のトレンドが続きAIを含む技術が発達すれば思考力自体が必要なくなるのではないかという見方です。あくまで仮想敵を作り出しているだけのつもりなので本当にそんな主張をする人が現れたら最大限の軽蔑を込めて人間をやめろと言ってしまうところですが、感情論は置いて今一度思考力の意義について考えてみましょう。
歴史を振り返ると、人類は書物と印刷技術の普及により記憶能力や伝達技術を補完し、産業革命を通して肉体労働の在り方を根底から覆し、対数表やコンピューターを発明したことで計算の労力を減らし、そしてインターネットの登場で情報アクセスにおける空間的束縛から解放されました。AIの発達はこうした大きな時代の流れの変化の一つに過ぎず、今までそうであったように結局は当たり前のこととして違和感すら感じなくなるのではないかというのはよく目にする観測です。
しかし、ここで挙げた従来の革新とAIの間には決定的な違いがあります。前者が代替してきた人間の能力は「誰がやっても同じ」ものなのに対して、思考は「実行者によって方法や結果が大きく異なる」ものであるということです。例えば覚えるという作業は人によって得手不得手がありますが最終的なゴール(情報を保存すること)は皆同じです。計算や情報収集も同様で、各タスクに対して明確な正解が存在します。一方で思考という作業の末の結論/結果は人の数だけ異なるものです。最初の思考力の定義で用いた「非自明」という言葉はこれを意味しています。つまり、開始地点を見るだけではゴールが予測できないということです。そして思考を他の存在に委ねるとは、この唯一無二性を放棄することと同義に他なりません。本来十人いれば十通りの思考方法とその結果があるはずが、AI主体の世界ではプロンプトを打ち込み出力を待つ人が十人存在するだけになります。入力の違いやLLMの個体差によって結果こそ多少異なるかもしれませんが、人間の実行する作業に限定するとその多様性は確実に失われるでしょう。

ここまでは思考という個人の内面の変化に焦点を当ててきましたが、その影響がさらに人同士の関わり方にまで波及するということは自然な推察だと思います。
例えば、AIの導入が社会の分断を広げるという懸念です。異なる意見を持つ個人やグループ同士の対立は近年一層浮き彫りになっています。AI以前も既にSNSの表示アルゴリズムなどを通じてオンライン上ではエコーチェンバーが形成されていましたが、AIはその流れを加速させています。先に述べたようにAIは説得力の高い「正解」を見せるのに長けていることに加えて、モデルによっては入力者やその意見を肯定する傾向が特に強いと知られているものもあります。そのようなAIとの会話の真似事を通して自分の考えを肯定された人は自分が正しいという思いこみを強め、世間一般の認識から乖離していくことや他者と衝突することも十分考えられます。
この点にも繋がるのがAI関連のリテラシー意識の低さです。既に存在するケースとして「AIがこう言っているから正しい」と見境なく信じる・AIから出力されたものを自分の著作物として公開する・他人の作品をAIに入れて「改良」することなどがありますが、これらはどれもAIがあまりに急に身近に普及してしまったことでその位置づけがまだあやふやであることが原因だとまとめられると思います。(確かなことは言えませんが)一つ目はAIを絶対的な存在と認識していること、二つ目はAIを自分自身の一部/延長のように捉えていること、そして最後の事例はAIを数多く存在するモデルとしてではなく社会全体での一つの共通財産のように思ってしまっていることとがそれぞれの行動を動機づけていそうです。AIとはそもそもどういうもので人間/社会はどの立場で関わるべきなのかといった点について十分議論や周知がなされることなくAIが一般に公開されている現状は健全ではないと思っており、そうした開発側の無責任さもAIが生活に浸透していくことに対して危機感を覚える一因です。

さて、以上が私がAIを受け入れたくないと思っている理由ですが、もう一つ言えることがあるとすればそれは私のような価値観の人にとってこれが明らかな負け戦であるということです。どれだけAIの浸透に弊害があっても、或いはどれだけ社会的な混乱を生もうとも、今更AIの開発が止まることは絶対にあり得ないし数年後には完全にAI中心の世界になっているでしょう。
しかしそう信じている一方で、個人的に頻繁に考えているのは「仮に明日AIがすべて使えなくなったとして、どこまで生活の質を落とさずにいられるか」という問いです。もしそんな世界が想像すらできないならばそれは既に依存と呼んで差し支えないでしょう。こんな突飛な仮定を考えることに意味があるのかと思われるかもしれませんが、私はAIの存在は強大であると同時に非常に脆いものだと思います。そもそもアクセスの権利が完全にAI企業の裁量次第である時点で信用に値しないでしょう。最近ではOpenAIがProプランの新規利用を一時制限したことも話題になっていましたが、他者に生殺与奪を握られているというのは良い気分ではありません。またデータセンターの建設・維持問題、エネルギー問題、政情に左右される開発競争など今後の業界の課題は山積みです。上ではAI開発は止まらないと書きましたが、少しのきっかけで状況が180度変わることは十分あり得ます(杞憂だといいのですが)。そもそも自立できるならばそれに越したことはない訳ですから、寄りかかりすぎていないか常に気にしておくのは良い意識だと思います。そのためにも大事にしたいのは、自分という存在の境界をしっかり守ることです。AIを全く使わないことが恐らく不可能になる以上、どこまでが自分の手による作業でどこからがAIにやらせたものなのかの区別を意識すること、そして委託と依存は別物であると認識することが没個性の道具に成り下がらないための方法だと思います。
世界の進んでいる方向に明るい希望を見出すのが難しい昨今の時勢ですが、せめて自分のコントロールくらいは自分で持っておきたいものです。

2. 数学をめぐる価値観の変化

このレポートを書いている2026年9月、数学界を騒然とさせる大ニュースが流れました。今世紀最も注目を集める七つの難題、ミレニアム懸賞問題のうちの一つを解いたとする論文が投稿されたのです。2000年に選定されたこの有名問題たちは、その数学的重要性や難しさに加えて解決者への100万ドル(1.5億円超)の賞金が設定されていることでもよく知られていますが、2003年に解かれた一題を除いて長い間未解決となっていました。その解決ともなればとんでもない偉業なのですが、今回の論文に対しては本来与えられるはずの賞賛よりも批判と戸惑いの声が多方面から集まっています。そのような議論を巻き起こしている原因は、論文の投稿者が「Open AI」だったことです。

Open AIの発表によると、彼らは一般未公開の最新GPTモデルを一万台並列で88時間稼働させ、166ページに及ぶ証明を生み出したとのことでした(参考[1])。一方で、この発表とほぼ時を同じくしてその分野の先行研究者である別の数学者から声明が出されました(参考[2])。その声明にはOpenAIの研究倫理に疑問符を付ける内容が多く含まれており(問題に取り組み始めた動機やタイミングの不自然さ・彼の研究データの直接あるいは間接的な盗用疑惑・彼やその共同研究者に対する圧力や脅迫とも取れる対応など)、OpenAIが自社モデルの性能を検証・喧伝するという目的から数学を踏み台にしてなりふり構わず行動していると多くの人に読み取られてしまいました。
これを受けて、その数日後には「AI開発競争のベンチマークとして数学が使われ、未解決問題がそのポテンシャルを活かされることなく次々と解かれてしまうのは数学の本質から著しくずれており、学問としての発展を阻害しかねない」という主旨で世界の第一線の数学者25人による連名での声明も発表されましたが(参考[3])、今度はこの声明が数学界内外から様々な議論を呼び…という具合で状況は収束から程遠いものとなっています。

とはいえひとまず認めなくてはならないのは、4年前まで初等的な計算程度しかできなかったAIの数学レベルは今や人間のそれを軽々超えてしまったということです。去年の時点で既に学部レベルの内容ならば十分処理する力がついており、また今年に入ってからは複数の未解決問題(Erdos problems, Jacobian Conjectureなど)がAIを用いて解かれて話題になっていましたが、これまではまだ「最先端の研究には追いついていない」「単発的な反例は見つけられても構成的証明はできない」「その問題に取り組んだ人が少ないだけ」といった見方をする人も少なくありませんでした。しかし数多の数学者が挑み続けてなお解かれていなかったミレニアム問題において(検証待ちとはいえ)成果を出してしまったとなればそんな言い訳も最早通じません。これからの研究はAIが中心となることはほぼ間違いなく、人間の数学者の存在意義や数学そのものの役割が問われる時代になりました。
しかし同時に露呈したのは、数学に携わる人とそうでない人の間で数学についての価値観が余りに食い違っているという事実です。上述の集団声明は「数学はただ単に難問に答えを与えるだけの学問ではなく、探求の過程で生まれる新しい手法や概念、そしてそれらの間の関係性を解き明かすことにこそ価値がある」という数学徒ならばほとんどが同意するようなごく普遍的な主張をしていたのですが、それに続く反応からどうやら世間は必ずしもその価値観を共有していないようであるということが分かりました。それは数学者への批判という形でも現れており「AIによって難問が早く解けるようになるのは良いことなのに、それにごちゃごちゃ文句をつけている数学者たちは科学の発展より自分たちの既得権益を守ろうと保身に走っているだけだ」といった声や「自分より数学ができる存在が現れて慌ててるだけ」なんていう言いがかりも散見されます。AIが人間の能力を超えて難問も解けるようになれば数学者は不要ではないかという意見が跋扈している現状は数学に関わる者として非常に憂うべきものです。

こうした意見が聞こえてくることの背景には大きく二つの理由があると思います。一つ目は、数学という学問が社会への貢献という評価システムと絶望的に相性が悪いことです。一般社会にとって研究とは「身の回りの何に役立つのか」という指標でしか評価のしようがありません。例えば工学ならばインフラ整備やロボット開発、コンピューターサイエンスならばシステムの実装やソフトウェア開発、生物ならば医療研究といった具合によく知られている応用先が存在し、同様にして基礎研究の方もそうした社会的意義に繋がる意味のある仕事として認知されやすい節があります。また化学や物理といった分野は根本的には実世界を相手にしている学問ですから、目に見えるものや誰でも知っているような対象を足掛かりにして研究の概要・応用を説明できることも多いのではないでしょうか。それに比べて数学は、分かりやすく提示できるような社会への出口をほとんど持っていないが故にそのような理解が得られないことが多いのです。つまり、数学のこういうことを勉強していると言うと大抵の場合まず「それは何の役に立つの?」と返される訳です。
二つ目のより根深い課題は、数学を学んでいる層から外への発信が非常に少ないことです。多くの場合、数学(特に純粋数学)の研究対象はただの概念なのでまずその時点で外部への説明のハードルが上がります。さらに数学は理論を丁寧に積み上げていく作業ですから、省略して説明することがとても難しいのです。結果として出来上がる説明は「Aというものを定義した時にBという結果が得られて、それはCという性質と関連があるからDだということが分かる、それをEという実世界のコンテクストに落とし込むとFみたいな形で応用されるんだよ~」といったところですが、この調子では頑張って解説してみてもほとんどの人は最初の定義の時点で脱落しているでしょう(ちなみにこれは内容の難しさというよりも、相手がこのような論証形式に慣れていない=話がどのように進むかの前提を共有できていないことが大きいと思います)。そしてそんなやり取りを繰り返すうちに、数学を何も知らない人に数学の話をしようという気概は次第に削がれていきます。数学を嗜む人の多くが分かりやすさよりも厳密性を優先してしまうこともその要因の一つになっていそうで、誤魔化して説明することを好まないというその性質もアウトリーチがより阻害されている理由かもしれません。

今の数学者の立場の弱さは、そうして外との繋がりを疎かにしてきたつけに他なりません。数学者たちはこの現状をしっかり直視し、これからは「数学とはこんなにも面白いもので、こういう事象とつながっている」と説明を果たせるようなアウトリーチに努める必要があると思います。それを怠った先には、有名な未解決問題の解決などの分かりやすい見出しや社会的有用性に直結するものばかりが賛美され、AIを使った大量のリソース投入によってそれらの答えが次々発見されていく横で学問としての数学は次第に先細りになるという未来が待っているかもしれません。AIの数学への貢献は認めていく一方で、それぞれの分野のフレームワークを整備する仕事、そして新たな分野や新たな問いを立てるという従来からの仕事が軽視されることの無いように数学界の内外ではたらいていく必要があると思います。

3. 研究経験の話、自分の将来の話

冒頭で少し触れた通り、この夏はLMS Undergraduate Research Bursary(参考[4])という助成金を頂きながら研究プロジェクトを行いました。私は博士進学を見据え始めた1年生の終わりにこのプログラムを知り、2年生に上がってからすぐ準備を始めました。まず応募のためには(一般的にアカデミアで何かに応募する際と同様に)事前に取り組むプロジェクトとsupervisorを先に自分で見つける必要があり、審査は学生個人に関することに加えてそのプロジェクトの内容やsupervisionの質なども考慮に入れて行われます。そのため、最初にしなくてはならなかったことは研究プロジェクトをさせてくれる相性の良さそうな先生を大学内で見つけることでした。私にとっては中々難易度が高いタスクでしたが、授業等を通じて知った先生の中から専門分野と性格 - レクチャーのスタイルや人当たりの良さなど - を加味して目星を付けた後メールでのやり取りを経て首尾よくsupervisorを確保することができました。そこから3年生の秋までの一年間を準備(専門的な内容の教科書や先行研究の論文を読む時間)に費やし、学内と全国の二回の選考プロセスを経て正式に採択決定となりました。

振り返ってみると、今回上手くいった最大の要因は(元も子もないですが)大学での成績だったと思います。やはり良い成績を取っておくと後々圧倒的に楽です。最初にsupervisorと面談した時も、referenceを貰いに別の先生に会いに行った時も、相手が成績を認しただけでこちらの力と本気度を明らかに察してくれて話が通りやすくなりました。本選考でもダラムの学科内で上位2%という数字は有利に働いたことは間違いないでしょう。よくある二元論問題として「自分より高いレベルの環境で苦労しながら頑張るか、適正レベルで余裕を持って過ごすか」という話がありますが、結果論で語ると私の場合は後者で大正解だったようです。
また、もう一つ良かった点を挙げるならば初動の早さだと思います。1年以上準備したという事実は - 上手くアピールできれば - そう軽く見られるものではありません。自分としても、早くにsupervisorを見つけ先取りも始めていたことが2年生後半や3年生の間の安心材料となり本業である大学の勉強にも身を入れることができました。

こうした経緯があって、今年の6-7月はダラムで研究に勤しんでいました。数学科は紙とペンさえあればいいというのはまさにその通りで、週一回のsupervisorとのミーティング以外は特に出勤の指定も拘束時間も無くほとんどの作業は自分の家で進めました。作業の方も1日のうちに好きなタイミングで3-6時間確保する程度で、実際研究職に就くならばここまで気ままにはいかないでしょうがそれでもアカデミア特有の「人それぞれのペースで仕事をする」という性質が垣間見えました。

今回の経験を通して得た最大の収穫は、研究は往々にして拾うよりも捨てる作業であるという気付きです。このプロジェクトの成果は最終的に四つの定理とその証明に凝縮されるのですが、それらを並べて見ると実際に我々が取り組んだ作業の量と比べるとびっくりするくらい簡潔です。時には一週間のほとんどを費やした計算が結局どうしても上手くいかないと判明したこともありましたが、そうした過程や努力が報告書や論文に現れることはありません。極論、始めから「正解」の道を行っていたとしても表向きは何も変わらない訳です。しかし、だったらこの一週間が無駄であったのかと言えば私は違うと思います。上手く示すことができなかった件の主張は前提となる束縛条件を調整することで一つの定理に化けましたし、その調整を入れようと考えついたのは上手くいかないケースに長い時間触れ続けたおかげでした。またその一週間で培った感覚(計算の中で繰り返し現れる操作や何度も扱う論証の方法など)はより広くプロジェクト全体を通して役に立つものでその先の作業をスムーズに進める遠因となりました。これこそが「考えをあちこちに伸ばす」という先に述べた心構えの産物だと思います。一見遠回りのような思索からでも得られるものは必ずあり、そうしてかけた時間は思わぬ形で実を結ぶのです。研究というコンテクストにおいてそれを実感できたこと、そしてそのやり方を多少なりとも学べたことを今後に活かしていきたいです。
さらに特筆すべきことに、今回のプロジェクトではアイディア出しから報告書の執筆に至るまでAIを一切使っていません。ミーティングではいつも黒板を前に2人であれこれ話し合い、成果を清書する時には「ここはどう表現すれば分かりやすいか…」と長い時間悩むといった古き良きメソッドを一通り味わえたことはとても嬉しいです。今後は研究の世界もAIによって塗り替えられることが予想される中で最後に純粋な人間の手による研究ができたことは一生大切にしたい経験です。

最近は、大学にいる時間が残り一年を切ったことで急かされるように将来について考えを巡らせることも増えてきました。次のタームからはイギリスでの博士進学を目指していよいよ出願や受験に臨むことになります。正直に言うと現在の数学界の状況やアカデミアの苦境は自分の将来の進路を再考したくなるほどのインパクトがあり、今は少し前ほどの自信を持って「研究者を目指す」と言うことはできません(目指したい気持ちが薄れた訳ではなく、他の選択肢を持つ必要性も念頭に置くようになったということです)。しかしここまで来て引き下がりたくはないので、アカデミアの世界で足掻けるだけ足掻きたいと改めて思ってもいます。そもそもAIに仕事を奪われるかもしれないという動機で身の振り方を考え直したとして、その乗り換えた先がAIのあおりを食わない保証はどこにもなくむしろ高確率で同じような状況になる訳ですから、それを理由にして進路を変えるのは現時点ではナンセンスでしょう。より大きな問題は数学や数学者に求められることが変わってしまうことに伴うモチベーションの維持です。その観点から言えば自分は研究に留まるよりもアウトリーチに向いているのかな…などと想像してみることも最近は多く、当面の目標は研究に据え置きますが同時に教育方面にもアンテナを広げてみようと考えています。今後数年は情勢の変化がさらに目まぐるしいものとなるはずですが、それらに惑わされて数学そのものへの熱を忘れるなんてことがないように初心を保ちつつ、変わりゆく社会の価値観にも目を向けることを心がけようと思います。

References/参考
[1] Navier-Stokes solution by OpenAI ;
https://x.com/OpenAI/status/2097374640582668336?s=20
[2] Statement by Tristan Buckmaster ; https://cims.nyu.edu/~tristanb/statement.pdf
[3] 'A Severe Misalignment of AI in Mathematics' by Terrence Tao et al. ; https://mathandai.org/
[4] Undergraduate Research Bursary by London Mathematical Society ;
https://www.lms.ac.uk/grants/undergraduate-research-bursaries/applications