お知らせ

Bさん(Durham University , Mathematics / Fettes College出身)

長かったような短かったような大学での1年目が終わりました。長すぎる夏休みに感覚が狂わされているのか、あるいは単純に自分の体内時計が壊れているのか分かりませんが、最近は1日1日が長く感じるのに後から見ると1週間があっという間だったり、逆に毎日忙しくしているが振り返るとあれがたった1カ月前のことかと驚いたりしています。
この夏は、同期たちも皆日本に帰ってしまう中で3カ月という長い長い休みを一人イギリスに残って過ごすことに決めました。ハイライトは7月にドイツの方へ一週間ほど旅行に行ったことと、8月のTOPSにサポーターとして参加させて頂いたことでしょうか。前者の方では初めて訪れた国でイギリスとはまた違う地理や空気感を存分に味わうことができ(正直イギリスに負けず劣らず気に入ってしまいました)、後者では参加した7期生や8期語学研修生たちとまるで同級生のように仲良くなって2週間本当に楽しく充実した時間を過ごさせてもらいました。年下の彼らや年上である他のサポーターの方々と接する中で学ぶことや刺激になることも大変多く、自分の今までとこれからを顧みる良い機会になりました。関係者の皆様、その節はどうもありがとうございました。
この1年、特に直近の半年はふとした瞬間に自分の考えや内面の変化に気付かされることが多い時期でした。という訳で今回は個人レベルの話に焦点を当てて、しかしもちろん一般論も忘れずに何点か書き散らしてみます。次のレポートは1年後になるから今のうちに書けることは全部書きたいと思って詰め込んだ結果また長くなりました。ごゆっくりお読み下さい。

お題目

1. 進路について(アカデミアに進むという選択肢)

2. バイカルチュラリティについて(バイカルチャーの定義/文化とは何か/「文化を理解する」とは何か)

3. 「イギリス人らしさ」について(集団の中での個の発達/イギリス人のアイデンティティを形づくる要素(地域・階級・人種)/個の可視化による結果/ステレオタイプについて/意思表明)


1. 進路について

前回のレポートでは大学を出た後の数学科の進路を「数学の世界に留まるか、数学と実社会を繋ぐ翻訳者になるか」の大きく二種類に分けて触れ、その時点では自分は後者の道に進もうと考えているという旨を書きました。ところがそれからさらに半年の大学生活を経て、最近は少し将来についての見方が迷走気味にあります。
まず大学初級レベルの数学を一通り勉強して発見したのは、自分が無類の純粋数学好きであることです。その傾向自体は別に驚くようなことではなく、だいぶ前から自分は純粋数学の方に強く惹かれる性格であることは自覚していました。大学に出願する際に書いたpersonal statementを読み返すと「いくつかの定義や公理から出発し、論理的かつ抽象的な議論を繰り返してより複雑な定理や法則の発見に至るその過程こそが(自分にとっての)数学の美しさ」といった主旨のことが述べられているのですが、まさにその通りで僕が数学を好きなのはその応用性の高さというよりも数学の構造(性質)そのものに依るところが大きいです。そんな訳で、去年は履修した8つの分野を気に入った順で並べると純粋数学要素が強い順そのままになっていたり課外で手を出す勉強はほとんど純粋数学の方面だったりと気が付けばそちらの方に流れている自分がいました。その程度ならまだいいのですが、困っているのはそれが「実世界で何かを作る/造る/創ることに貢献したい」と書いていた8カ月前までの自分の考えを押しのけるほどに大きくなっていることです。逆に「モチベーションがほぼ無い」なんて言い切っていた研究職への見方もがらりと変わって今では「できるならアカデミアに留まりたい」と周りにも言い始めました。
この心境の変化の理由としては主に3点あります。まず一つ目に上述のように仕事にできるような応用分野からは少し離れた単元を勉強している時間が特に楽しいこと。二つ目に、あまり具体的なイメージがついていなかった数学の研究という概念が少しずつ身近に感じられるようになったこと。以前は自分ですら研究できるような内容なんて世界に何千何万といる数学者たちの誰かが既にやっているに違いないなどと勝手に思っていましたが、色々なトピックに触れたりいくつか論文を漁ってみるにつれて「こういうのもありなのか」という実感が備わってきたのだと思います。そして最後にこの分野でアカデミアを目指して損なことはないだろうという目論見があります。とにかく数学をしているのが好きならばとりあえず修士・博士までやり切ってしまえばいい、途中でまたその先の道の最適解が浮かんでくるはずだというまあ悪くいってしまえば先延ばし思考です。しかし真面目な話、研究職や教職を考えるならば博士まで進むことは半ば必須ですし仮にどこかの業界に入るとしてもPhDの見識と肩書は十分すぎるほどプラスに働くはずです。少々打算的なところがあるのは認めますが、勉強を続けたいという思いは本物ですし今から数年後に企業で働いている自分と大学に残って勉強を続ける自分、どちらが想像しやすいかといえば圧倒的に後者です。
そんな想いが自分の中で固まってきているのと同時に、「おとなしく修士くらいで切り上げて就職した方がいいんじゃないかい」という別の声も聞こえてきています。確かに研究の道は不確定要素も多く、ファンディングの問題など考えないといけないことは山積みです。しかしここまでの人生、余計な事を考えるよりもその時々で自分のやりたいことに割と忠実に生きてきましたし「目指せるところまで目指す」というのは常日頃から心がけていることでもあります。そんな訳で、今は現時点でできる精一杯、すなわち学部で好成績を残し(幸い1年目の試験の点数は悪くなかったのでこの調子で)自分がこの先長く携わりたいと思う分野を少しずつ選んでいくことに注力しようと改めて決意している今日この頃です。


2. バイカルチュラリティについて

以前にも少し触れましたが、大学に入ってから起きた大きな変化の一つは一緒に時間を過ごす友達がほぼ全員イギリス人になったことです。お陰様でこの一年はイギリスの政治・歴史から芸能まで様々な(周りの人の趣味趣向が詰まった)知識を入れさせられ、大量のスラングと色々な地域のアクセントを拾い、休暇中には各地の友達を訪ねるといった調子で今いる環境を最大限活かした良い生活が送れたかなと思います。
そうした時間を過ごす中で、少しずつ自分の中でのイギリス人という概念に対する解像度が上がってきた感覚があります。もちろん3年もこの国にいることによる慣れも大きいですが、それ以上に相手の行動原理が何となく読めるようになってきたと言いますか、留学したての頃はまったく理解できなかった彼らの振る舞いがだんだん分かるようになってきたのです。例えば誰かと会話をしていて「この人次はこういうことを言いそうだな」とか「今ここでこの話をしたらうけそうだな」といったことが自然と浮かぶようになってきて、実際にその予想のままの流れで会話が進んでいったりという経験が増えてきました。書き出してみるとこんなのはコミュニケーションを取る上では当たり前のことのように見えますが、恐らくイギリスや日本以外の人と一定以上の時間と質で話をしようとすると同じようにはできないはずです。
ここまで考えた時に、ふと「バイカルチュラルになるってこういうことか」という感触を得ました。「バイカルチャーな人材」とは財団のホームページにも多く登場する言葉ですし、世間一般でも昨今よく使われる単語です。しかしその定義はざっくりしていて曖昧なところが大きいのが否めません。辞書的な意味では「複数の社会文化に適応している」「その国の言語だけでなく文化まで理解すること」「二つ以上の言語・習慣などをその国の人と同レベルで身に付けていること」などとありますが、いずれも適応/理解/身に付けるなどの言葉で誤魔化されてしまっていて具体的にどういう状態がバイカルチュラルなのかよく分からずじまいです。定義がはっきりしていないのに「バイカルチュラルになるとは」という感触を先に得たというのも変な話なのですが、上手く言葉にできない感覚と上手く実感が湧かない単語が出会った結果「この二つは同じものを指しているのでは?」という気付きが生まれたと言った方が正しいかもしれません。
とはいえ曲がりなりにもレポートを書いているのですから「よく説明できないけどこういう感覚がありました!」で終わらせる訳にもいきません。言語化の難しいこのコンセプトを敢えて文章に落とし込めるように深掘りしてみましょう。

まず文化とは何か(大雑把に)考えると、それはあるコミュニティにおける共通認識の集合体であると言えると思います。人間は二人として同じ個体はいないので複数の人が集まった時にはどこかで認識の齟齬が生まれます。それは言葉かもしれないし、あるものに対する価値観や優先順位かもしれないし、生活する上での様々なルールや習慣かもしれません。では二人の人間が出会った時に彼らがお互いを同族かどうか判断する材料はどこにあるのかというと、それはどれだけ多くの認識を共有できているかでしょう。もちろんどのレベルまで共通する部分があれば同族判定できるかはコンテクスト(時と場合)に大きく依ります。例えば自然の真っ只中で目に入るのは見知らぬ生き物ばかりといった環境では誰に会っても同じ人間であるという事実だけで仲間意識が芽生えるでしょう。また最近 "The Day of the Triffids" というディストピア小説を読んだのですが、ある夜を境に人類の大半が視力を失ったその世界では「目が視えるかどうか」で人を区別するようになります(イギリスが舞台なので言葉は通じる前提です)。視力の有無は拾える情報とそこから得られる認識の差にはっきり直結するので、ここでもまた共有できる認識の量で人を判断するという現象が起きています。
今引き合いに出したような特殊環境下では人間であるか/目が視えるかなどの根本的な部分で線引きがなされますが、普通に我々が生きている世界では周りのほとんどがそういったボーダーはクリアしているので更に基準が上がります。その「これが共有できていれば仲間と見做せる」という基準の集合を文化と呼べるのではないでしょうか。こう考えると、黎明期の社会あるいは天災や人災下といった余裕のない状況では文化が育ちづらく/保たれづらく、生活水準が上がり余裕ができるにつれて文化が発達していくという構図とも矛盾しません(仲間を選り好みするという贅沢の余地が生まれる⇒「共通認識」の基準が上がっていく⇒より複雑で多様な文化が出来上がる)。

この提起に沿って改めて「文化を理解する」とは何かという問題に戻ると、それはどれだけ他コミュニティの共通認識を自分も共有することができるか、ということになります。もちろんそれは一朝一夕に起こるものではなく、また限定的な交流ばかりしていても得られるものではありません。あるコミュニティに属する人々の「共通」する部分を見つけるためにはなるべく多くのサンプルを観察して正確性を上げる必要があります。僕個人のコンテクストに落とし込むと、大学に入ってからよりイギリスの人の考え方が分かるようになった気がするのもパブリックスクールという狭い世界から出てさらに色々なサンプルに触れることができたからでしょう。ある自然数集合の要素を増やしていけばいくほどその最大公約数は小さくなっていく(正確に言うと広義単調減少する)ように、多くの人に出会うことによってその人々の共通部分にどんどんピントが合っていくのだと思います。
ここに他文化「交流」と他文化「理解」の間にある決定的な違いが見えます。つまり前者は相手側の集団から抽出された限られた数の個人をサンプルとして向こうの認識(=文化)を探ろうとする試みで、後者はより幅広い経験とサンプルから相手側の共通認識を自分のものとする作業だと思うのです。ただ他文化に触れる・知るのではなく、自分も相手と近しい認識を備え相手のコミュニティに入っていっても仲間だと認められるほどの素養を身に付けることが本当のレベルでの文化理解/バイカルチュラルになることであると定義できると思います。
振り返って自分の経験に戻ると、会話の中で周りとの波長が合うことが増えたり以前は戸惑わされた行動がもはや驚きのあるものでは無くなったりというのはまさに彼らと「当たり前」を共有できるようになってきたからでしょう。つまり共通認識の育成です(とはいえこれしきでバイカルチャーを名乗る気にはさらさらなれませんが)。これは非常に嬉しいことであると同時に、エディンバラのパブリックスクールとダラムの大学(+若干の地元の人との関わり)というまだまだ限られた環境での限られたサンプルと接することから得られた感覚であることは忘れてはいけません。今後少なくともあと2年はイギリスで生活できる訳ですが、その2年を様々な人と出会い一層見識と認識を広げる有益な時間にしたいと願うばかりです。

余談1:この文章を書くにあたりバイカルチャーという語を軽くネットで調べたのですが、その時ちらほら「最近ではバイリンガルよりもバイカルチャーが重視され…」なんていう言説を見かけました。どうも中にはバイリンガルとバイカルチャーは全くの別物である、バイカルチャーになればバイリンガルにならずとも十分である、という認識の人もいるようです(もちろん全部が全部そういう主張ではなかったですが)。しかしバイカルチャーになるというのが他国の人の考えや共通認識を学ぶという作業である以上、バイリンガルであることはバイカルチャーになるための必須条件でしょう。言語は文化が埋め込まれているもっとも基本的な要素ですから(北国の言葉には雪に関連した語句が多く見られるなんていうのは有名な話ですね)、言語を理解せずして文化を理解できるはずがありません。

余談2:「共通認識を培う」とは「文化を理解する」より幾分かましな表現になっていますが、とはいえこれもまだ少し抽象さが残る言葉です。もっと具体的に、そしてはっきり判定できる指標はないでしょうか。こうした問いから連想されるのは、「機械が人間らしさを備えているとはどういうことか」というもう一つの問題です。それに対してはアラン・チューリングが出したチューリングテストと呼ばれるアイディアが有名でしょう。このテストでは質問者(人間)と被験者の二人がいて、質問者は被験者が人間か機械か知らされない状態で会話(メッセージ)を交わし被験者の反応や答えを元に会話をしている相手が人間と機械のどちらであるか予想します。もし機械が十分人間らしく振る舞えるならば質問者は人間と機械の区別がつかないはずである、ということです。これと同じ勝手で、もし誰かがある文化の素養を身に付けているか判定したければ身元を伏せた上でその文化圏の人といくらか時間を過ごさせ、相手がその人のことを自分の文化圏の人だと受け入れて違和感なく接することができるかというテストができたら面白いなと思いました。結局のところ「人間らしさ」も「X人らしさ」もその性質を決定づけるのはその構成員であって、「正解」を見つけるためには定義云々よりも彼ら自身の感覚に頼るしかないのです。


3. 「イギリス人らしさ」について

渡英後9カ月のレポートで僕は「集団と個人について」というタイトルの下、イギリス(パブリックスクール)での個人主義的風潮について日本のそれと対比させながら書いていました。今読み返すと考察というより観察に終始しているところが多いし若干バイアスが入っている気もして大変反省しているのですが、ここではそれに加筆するようなところから出発して一体何がそうした違いを生んでいる要因なのか、イギリス人らしさを形づくっているものは何なのかなどについて考えたいと思います。

まず一般論として、集団の中で個が育ちやすい条件とはなんでしょうか。幼少期の環境や社会システムなどファクターは様々ありますが、いずれの場合を考えても結局「どこまで自我を出すことが許されているか」という点に落ち着くと思います。人間は社会性を持つ生き物ですから大なり小なり他者の行動に合わせて自分を変えます。なのでもし周りが個性を持つことに寛容であると感じ取れば個は育ちやすい(出しやすい)でしょうし、集団の中で個を出すことが許されていないと思わせる何かがあればそれは自然と個を押さえつけることに繋がるでしょう。「許されている」というのは少し変な言い回しかもしれませんが、集団心理や社会規範というのは得てして馬鹿にならない強制力を持っているので決して行き過ぎた表現ではないと思います。
何をもって「許されている(いない)」と個人が感じるかは一概には言えません。一番簡単に思い当たるのは周りからの直接的な指示(親に「周りが変な目で見るからやめなさい」と言われたり学校で集団行動を教えられたりといった類のこと)などでしょうが、それですべての動機が説明できないこともまた自明です。そうした様々な外的・心理的要素たちをもっとも包含できる説明は「どれだけ周りに個が存在しているか」、言い換えればどれだけ個が可視化されているかだと思います。もし周りに多様な人々が揃っていればそれは自分もその多様性の一部になることができるという合図になるし、逆に周りの人が皆同じような振る舞いをしているなら自分もその一員にならなくてはならないという圧力になりかねません。ですから、個の多様性は伝播すると言ってもいいかもしれません。
ちなみにここで言う「個」というのは「個性」とは少し意味するところが異なります。個性が一人ひとりの性格や趣向/内的なアイデンティティを指すならば、個というのは他者との関わりの中の自己/外的アイデンティティといった部分を意図して使っています…あくまでここだけの定義ですが(一般的な使い分けとは多分違うと思います)。

これを踏まえてイギリスの人々を眺めてみると、確かに彼らには他者との違いを示す手段が明確に存在しています。外から見ていると一口に「イギリス人」と言ってしまいがちですが近くでよく観察すると一緒にしてしまうなんておこがましいと思えるくらい皆バラバラのアイデンティティを持っているのです。
具体的にどういうところで違いが出るのかと言われると幾つか要素はありますが、一番大きいのはやはり地域差でしょう。イギリスで言う「出身地」とは日本のそれとはちょっと次元が違うほどの重みを持っています。極論なのは承知の上で言ってしまうと、日本では出身地というのはあまり大きな違いを生み出しません。もちろん細かい習慣や風習の差異はどこにでもありますし、方言なんかは明確に「他とは違う」というのが分かる良い例です。しかし日本人にとってまず最も大切なアイデンティティは「日本人である」という事実そのものであって、その圧倒的存在感の前では地域差という観点は二の次、あくまでサブカテゴリの一つでしかないという扱いになると思います。誰かと話していて「○○出身です」という話になってもああそうなんですか程度で終わり、別にその答え次第で何かが変わる訳でもありません(少なくとも僕の経験則では)。このような傾向にあるのはやはり日本人が育ち生きる上で培われる「共通認識」が強力かつ一様だからだと思います。全国どこでもだいたい同じような環境で同じような人々と接し、同じような経験をする中で育つので出身地というファクターが特段顔を出す機会もなくアイデンティティが形成されるのではないでしょうか。その一方で、イギリスでは地域の差は文字通り文化の差を意味します。まずイングランド・スコットランド・ウェールズというそもそも言語も歴史も全く違う国が存在し、イングランドの中でも北部と南部で社会経済的な部分をはじめ大きな違いがあり(スコットランドとウェールズでもそれぞれ南北格差は顕著です)、イングランド北部でも北西部なのか北東部なのかで分かれ…といった具合に延々と細分化された地図の中でどこに位置するのかが非常に大きなバックグラウンドの違いとなって個の形成に影響しています。地域ごとの背景や特性が違いすぎるが故にそれはそのまま考え方の違いにも現れ(政治なんかの話になると特に見解の相違が激しいです)、その認識/文化の違いがお互いを「違うグループの人間」と識別することに繋がるのです。僕がいつも接している人たちはイギリス各地からやってきているので、この「出身地がアイデンティティとなる」という現象がもの凄くはっきり見て取れます。アクセントや政治の話題に始まり、うちの地元ではどうだの南部と違って北部ではこうだの本当によく飽きないなと思ってしまうほど果てしなく地域ネタで盛り上がる友達を見ながら日々イギリスにおける地域差の大きさを実感しています。
他にも、異なる個が可視化される原因として階級があります。階級については昔々(3年前!)拙いながらも紹介しましたが、やはりこちらも人々の認識観を分断する小さくない要素です。どの階級で生まれ育つかは生活スタイルや人生観そのものにまで影響を及ぼします。また日本ではちょっと考えられないことですが、日常的にも公的な場でも「私は中流階級だけど下の方で~」とか「この補助金は労働者階級のバックグラウンドを持つ人向け」なんていう表現が普通に使われます(つい先日も財務大臣がインタビューで「私は労働者階級出身」とアピールしてました)。何故イギリスでは階級という言うなれば時代錯誤的な構造が未だに無くならないのだろうかと常々疑問に思っていましたが、実はそれもまた人々を共通項で括りアイデンティティを与えるレッテルの一つなのだと最近になって気付き始めました。
そして当たり前ですが多人種国家であるという点も個の可視化に繋がっています。アジア系やインド系、黒人といった文字通り可視化されているグループのみならず、白人イギリス人の中でも「4代前にアイルランドから移住してきた」「フランスの血が1/16入ってる」なんていう人も珍しくなくその面での多様性にも驚かされますし、そもそもそういった家系のバックグラウンドについて調べる/言い伝えられていること自体も新鮮でした。国民のほとんどが日本人で、祖先も超高確率で全員日本人と分かりきっているような日本とはえらい違いです。
こう見てみると、イギリス人というのはレッテル貼りの種類が豊富な人々だと気付かされます。誰でも必ず「どこの何階級出身で何系である」というところまでがセットで自身の最も基本的なアイデンティティとして存在しているのです(もちろん上記の3点以外にも個を決定する観点はまだまだありますが)。そんな訳で、「イギリス人」という言葉が意味するものは「日本人」が意味するそれとはまた少し毛色が異なります。後者がおおよそ同じ文化を共有する大きな一集団を指すのに対し、前者は幾つもの異なる共通認識を持つグループが集まってできている緩いまとまり・共通認識が互いに相異なることを共通認識として持っている人々のことを指すと言った方が正確だと思います。ちょっと数学的な言い方をすると、「日本人」というのが個々を要素として持つ集合であるのに対して「イギリス人」とは集合を要素に持つ集合だということです。

こうした特徴を持つことで、どのような結果が生まれるでしょうか。一つには(この段のそもそものお題であるように)個が確立されやすいということがあります。自分と異なるバックグラウンドの人が周りにたくさんいることが当たり前になっているからこそ、集団の中にいたとしても自然と「他人は他人、自分は自分」というマインドになりやすいというのは妥当なロジックです。
また、多くのアイデンティティを身に纏うことは帰属意識の発育にも繋がります。周りに違うタイプの人間がたくさん見えているからこそ自分の属する集団、そして同じレッテルを背負った人間への親近感/同族意識が強くなることは想像に難くありません。往々にしてイギリス人は所属コミュニティへの Pride/誇りが強いと感じます(「その集団にいる自分」を誇るのではなく「その集団にいること」自体に意味があるという考え方、というと伝わるでしょうか)。パブリックスクールの寮制度なんかはまさにその好例で、生徒たちに生活と密接したレッテルを付与してその集団への帰属意識を高めさせることで意欲の向上や団結の精神を身に付けさせようという意図が見えます。
そしてもう一つ重要な点として、レッテルの多さとその存在感の大きさはステレオタイプを助長することに繋がると言えます。名前というのは他と区別可能な性質を持つ何かに付けられるものですから、逆に名前/レッテルが付いているからにはそれが指す独自性が存在しているはずだということです。もちろん人のアイデンティティという文脈においては一つの性質が同じでも個人個人は全く違うなんて当たり前のことですが、不思議なことに上の方で触れた出身地・階級・人種とどれを取ってもほとんどの場合それぞれのレッテルの名の下で「典型例」のようなイメージが確かに存在していることは否めません(余談ですが、ステレオタイプというのもまた共通認識の一例である訳ですから、そういうステレオタイプが分かるようになってきたこともまた僕がイギリスという文化圏に馴染んできた証左であると言えます)。
このようなステレオタイプを持つことには功罪の両方がついてきます。まずネガティヴな影響が発生するのは、あるグループのステレオタイプが独り歩きすることによってそれが個人に過度に適用されてしまう時です。上述のようにいくら近しいプロファイルを持っている人でも個人単位で見たら全くの別物なのに、ステレオタイプでしかものを見れない人間が現れるとそれは個人を蔑ろにすることや差別に繋がってしまいます。悲しいことですがステレオタイプというのは時の権力者たちによって彼らの立場を強化/正当化するために濫用されてきた歴史がありますし、さらに現代社会にもその価値観から抜け出せない人や抽象化と具体化が全く理解できていない頭が残念な人が多いのでこうした負の事象が後を絶ちません。
では一体、ステレオタイプが良い方向にはたらくなんていうことがあるのでしょうか。それを考えるヒントはイギリスの笑いの文化にあります。"British humour" というと少しブラックな皮肉交じりのジョークなんていうイメージで語られることが多いですが、その根幹にあるのは数多のレッテル貼りとステレオタイプだと思います。その代表例としてコメディがあります。イギリスのコメディは特にコンテクストで笑わせにくるパターンが多いように感じていて、これらは題材の背景や感覚(≈ステレオタイプ)を共有できていれば本当に面白いですが逆にそこが分からないといくら台詞が聞き取れても何が可笑しいのか理解することは難しいです。そのタイプの笑いの典型例として "Yes, Minister" という僕が大好きな往年の政治コメディシリーズがあります。政治ものなだけあって幅広く社会問題や人々をネタとして扱っており、政治家を滑稽に描くところからエスニックジョーク、北部いじりにフランス下げまで次から次へと「一般大衆が思い描く○○」を上手く捉えて笑いに変えています。初めてホストファミリーに見せてもらった時はところどころしか面白いポイントが掴めず、その後イギリスで過ごす時間が長くなるにつれて「こういうことをいじっていたのか」「ここも笑いどころなのか」と発見を重ねるようになりました。もう一つさらに日常的な例をあげると、ウェールズ人の友達がいる場での会話でウェールズの「丘と羊しかない寂れた地域」というステレオタイプを使って笑い話にすることはありますが、それは当人もそのようなステレオタイプが存在することは百も承知で聞いているので一緒に笑いに興じますしそのまま自然に会話は続きます。(少し話が逸れましたが)これらの例を通して何が言いたいかというと、ステレオタイプを取り上げることによって特定のグループについて触れやすく/話しやすくなるということです。地域差や階級、国籍など素のままでは若干触れづらいトピックでも、もし話し手と聞き手がステレオタイプを「あくまでステレオタイプ」と共通して認識できていれば個人そのものに触れることなく個人の属性についての話ができます。つまりステレオタイプは人の内側にあるアイデンティティを外側に持ってきて、主語を「個人」から「集団」にすり替えることである意味で個人を守る盾のような役割を果たすのです。

ここで「共通認識を持つこと」の大切さへと主題は戻ってきます。人と話すこと一つを取っても、相手がどんな前提を持っていて何を良しとするか知らなければ会話の真意が掴めないし意図せぬ不用意な発言で関係を悪くすることにもなりかねません。他国の文化圏でその一員として生きていくというのはそれだけ深く相手の認識観と考え方を知らなくてはならないということなのです。
僕はイギリス生活を送る上で「留学が終わった後でもイギリスで独立して生きていけるようになること」を大きな目標としています。今の段階では留学生という免罪符のおかげでイギリスについて或いはイギリス人について分からないことがあってもまだ学びの途中であると言うことができますが、大学を卒業して社会に出るとなるとそうはいきません。日本に戻って住み慣れた環境と文化圏で生きるのも、そもそも自分は日本人だから~と言って自分を変えないのも簡単ですが、せっかく若い時からこちらに身を置くという機会に恵まれてここまで来たのならば「イギリスへの留学経験がある日本人」でも「イギリスに住んでいる日本人」でもなく「日本のバックグラウンドを持つイギリス人」くらいまで全振りして生きてみたいじゃないですか。僕はこの留学をただの留学で終わらせないために、そして5年過ごすだけでは足りないと思わせてくれたこの国にこれからも残るためにイギリス人としてのアイデンティティと生き方についてさらに深く知りたいと思っています。ここまで長々と書いてきたように、3年を経てようやく「イギリス人らしさとは」という問いに対して少しずつ自分なりの解答が出せるようになってきました。とはいえこれはほんの表層に過ぎないこともまた自覚しています。こちらで生きていくために自分を作ることも実際にこちらに残るために進路を模索することも茨の道でしょうが、後からこの時間を振り返った時に後悔なくやり切ったと言えるように、これからももがいていきます。

余談1:ステレオタイプが個人の盾になり得るという論に従えば、イギリス人についてよく聞く「自虐が多い」「他のヨーロッパの国の人に比べて話す時に本心を中々見せない、持って回った言い方をする」という2つの話にも説明がつきます。すなわち前者は自身についてのステレオタイプ化されたアイデンティティについて話しているだけならばいくら自虐をしても自分そのものにはあまり刺さらない(盾を外側から自分で叩いているだけ)、後者については個人に直接触れずそれを取り巻くステレオタイプから入って話すことに慣れているからそうでない人が見るとまどろっこしいと感じる、ということなのではないでしょうか(あくまでこじつけに近い仮説ですが)。

余談2:欧米では何となく国籍いじりはOKで人種に触れるのはタブーという空気がありますが、恐らく上で少し書いたように国籍というのは多種多様なグループを包括する緩いレッテルなのでより個人そのものから離れているという点で許されていて、人種は(先天的なものだからという理由以外にも)数多のレッテルの中でも特に個人に近い概念だからアウトなのだと思います。何年か前にアメリカかどこかのコメディショーで日本人の英語の発音が面白おかしく取り上げられていたことに対して日本のオンライン上で怒る人がいたり議論になったりしていましたが、それは国籍=人種という稀有な認識を持ついかにも日本人らしい反応だと思います。アイデンティティの層が少ない日本人にとって国籍でステレオタイプ化されることは人種に直接触れられることに等しいのです。