2024年6月26日。卒業式の日は、イギリスには珍しく汗ばむほどの晴天でした。私は今年度をもってケンブリッジ大学音楽学部学士課程を修了し、5年間のイギリス留学を終えました。その締めくくりとなる今年度は、選択した科目も発展的で非常に興味深く、やりがいをもって取り組むことができました。以下、一部を紹介します。
1. Notation Portfolio
この科目は、楽譜の記譜法や作曲家の自筆譜に注目して、自分で選んだ曲について8,000字程度のポートフォリオを書くというものです。私が取り上げたのは、以前から興味のあった能楽の代表作である羽衣。能楽の縦書きの楽譜を一般的な西洋の五線譜に再編することで、能を見る人にも能楽のアンサンブルの仕組みをわかりやすくしようというプロジェクトでした。
その中で見えてきたのが、日本と西洋の楽譜に対するアプローチの違いです。西洋音楽では、一般的にどの楽器・スタイルでも同じシンプルな記譜システム(五線譜)が使用されています。そのため、一度読み方を学べば様々な西洋音楽に楽譜を通してアクセスすることができます。日本ではたいていの人が小学校の音楽の授業で習った五線譜の読み方を覚えていると思います。しかしその一方、能楽をはじめとする日本の伝統音楽の楽譜の仕組みは広く知られていません。これは、多数の流派が存在し、弟子入りした者だけにその流派の奏法を教えるという伝統の性質によるものだと考えます。実際に私もプロジェクトを進めていく中で、西洋音楽と比べて学術的な資料の少なさに驚かされました。後継者不足にも悩まされる日本の伝統芸能がより多くの人にとって親しみやすいものとなるにはどうすれば良いのか、考えさせられました。
2. Fugue
Fugue(フーガ)とは、複数のパートが一つのテーマを発展させながら進む音楽形式のことです。音楽学部のシラバスでは、1年生の時からフーガで使われている対位法という作曲技法について学んできました。
その最終段階となる今年度の試験では、テーマを与えられた中から一つ選び5時間でフーガを作曲するという課題が出されました。5時間というのは長く聞こえるかもしれませんが、全体の構成を考えてから対位法に沿って一曲を形作っていくうちにあっという間に経ってしまいます。そのため、個別授業であるsupervisionでは、時間内に正確かつ音楽的なフーガを書く練習を毎週重ねました。年度初めは10時間かかっていたのが、段々と時間内に書けるようになっていく自分の成長が目に見えた時は達成感を覚えました。
3. Choral Performance
これはとても合唱が盛んであるケンブリッジらしい科目です。合唱の中で必要になる様々な技能を培うことを目標としていますが、特に興味深かったのが、現在使われているような五線譜が開発される以前の楽譜に関することです。
これはグレゴリオ聖歌を集めたGraduale Triplexで使われているネウマ譜の一例です。ネウマ譜とは9世紀に現れはじめ、中世で広く使われた楽譜の種類です。横線は5本ではなく4本で、赤と黒の細かな形による指示があります。授業では、これらの一つ一つがどのような音楽的意味を成すのか学び、ネウマ譜から直接グレゴリオ聖歌が歌えるようになりました。このように、それまで読めなかった楽譜から音楽を紡ぐことができるようになることは、新たな言語を喋られるようになったかのような感覚でとても新鮮でした。
その他にも、最終試験では初見曲を4声アンサンブルと歌ったり、課題曲を指揮したり、合唱経験のなかった私にとって、大きな学びを得ることができました。
これらに3つの科目Analysis, Tonal Skills, Performanceを加え、合計6科目に一年間取り組みました。
私の学部ではポートフォリオ類の提出が5月頭、試験が5月中旬〜6月中旬にかけてあり、2月くらいから周りも試験ムードになりました。卒業試験ということもあり、皆プレッシャーを感じてストレスが溜まる時期でした。私もいくら勉強しても進展が見えない時は終わらないトンネルの中を進んでいくような気分になりましたが、最後まで乗り切ることができたのは友達やsupervisorのおかげです。
卒業後の進路に関して、同じ音楽学部の友人は、秋からヨーロッパやアメリカの音楽院に進学する人、来年度の音楽院受験に向けて1年間ギャップイヤーを取る人などさまざまです。その中で、私のように音楽と直接関係のない道に進む人はやはり少数派で、周りにもなんで?もったいないと言われることが多くありました。しかし、私が大学の室内楽や大学外のセミナーに参加する中で感じたことは、演奏家という生き方はとても特殊で、一生ただ音楽に没頭できてそれだけが幸せな人、または元々家が裕福な人のどちらかが多いのではないかということです。
私は?と考えた時に、少し違う、他にもっと人生で成し遂げたいことがあるのだと考えるようになりました。それでも、この大学で学んだことは人生に豊かさをもたらしてくれたし、もちろん楽器も弾き続けます。そして何より、音楽は私を構成する大きなピースとしてずっとあり続けると思います。
21歳の私にとって、イギリスで学んだ5年間は私の人生のほぼ4分の1を占めています。渡英した当初は慣れない文化や言語に戸惑い、なぜこんなところに来たのだろうと涙する日もありました 。しかし、日々学生生活に真剣に向き合い、音楽活動を通して様々な交流を深めてきた分、学びも多かったと感じています。語学や大学での学びはもちろんのこと、音楽を通してつながった大切な友人、先生、すべてがかけがえのない思い出です。
ヒースロー空港を発つときは、5年前に初めてイギリスに降り立った日を思い出し、もうあの頃の自分とは全く違う人間に生まれ変わったような感覚になりました。これからの新たな日々でも、成長を止めず、全力で努力します。そして、20年後、30年後、また40年後も、Tazaki財団のアラムナイとして胸を張ってグローバルに活躍していきたいです。
最後になりましたが、田崎理事長をはじめ財団の皆様方のご協力・ご支援なしにはこのような実り多き学生生活を送ることはできませんでした。この場を借りて心より感謝申し上げます。