
昨晩までに今学期に達成したことを書き綴ったレポートを書き上げていましたが、もっと伝えたいメッセージがあるように感じたので、今回のレポートでは先学期を通して感じた私の失敗の解釈について書きます。
こんなにも多くの不合格通知を見た学期は私の人生では初めてでした。Philosothon(哲学の大会)から数学のサマースクール、数多くの職業体験、昨晩届きたてほやほやのTen Tors落選まで、どれも鮮明に頭の中で描写することができます。だからと言って成功したことが一つもないかというと全くそういうこともありません。友達との距離がぐんと縮まり、RPEのスコアが安定するようになっただけでも大幅な躍進でしょう。
どうしても失敗に目が行くのはより大きく感情が動いたからだけではなく、他者との競争に多く負けたからでしょう。その時に感じた羞恥心や後悔が心に深く刺さり今でも心に残っています。
これらの失敗を重ねるたびに「失敗は成功のもと」という言葉が当然のように頭によぎります。今、その言葉の意味がわかったような気がする一方で、誤解の余地を多分に含む言葉でもあることに気づきました。この言葉には失敗を成功というむしろポジティブな概念で捉え直そうとするニュアンスがありますが、それは間違っているのではないでしょうか?失敗は、ある目標を達成し損ねたという点で失敗であることに変わりはありません。失敗が成功へと繋がり得るのはまた別の目標のもとでのみです。人生の樹形図は多分数学のそれとは違って、一度分岐した道がまた合流することもあって、どの瞬間にも失敗と成功の可能性が等しく残されているでしょう。だから、失敗が成功のもとであるというのは、失敗は新たな失敗のもとであるのと同様に成功のもとであるという、至って単純な事実をポジティブに捉え直す言葉である気がします。
むしろ今は、「失敗とは成長である」と言う方が正しいような気さえしています。「成長のもと」なのではなく、成長なのです。成功と失敗が樹形図の分岐だとしたら、成長とは、成功を引く可能性を高めるプロセスのようなものでしょう。失敗を経験したら落ち込み、悩みます。その失敗をどう取り返そうかと思いつく将来の可能性に思いを巡らせ、失敗を改めて後悔し、未来が狭まったように感じてもがきます。
ただ、これは成功していたら通っていないプロセスであると言うことには気がつきにくいです。後悔や悲しみ、苦しみの過程で、将来に少しでも思いを馳せた時点で、先の成功のチャンスは高まる、すなわち成長が得られます。ネガティブな動機であっても先の決断を見つめることは推進力を生みます。
苦しみや後悔は失敗にほぼ必ず伴って生じる感情であるから、そこから得られる成長も、失敗の産物というよりもむしろ失敗と表裏一体です。
この先に待つ挑戦の数は数え切れませんが、その種類はたかが知れず、およそ両手の指に収まるものでしょう。リーダーシップを求められるものから協調性が重視されるものまで。一つの失敗を犯すたびに知識を蓄えれば、必ず訪れるであろう同じ種類の挑戦で将来成功するチャンスは爆発的に上がります。
あるいは、自分の失敗を他者の成功や成長に繋げることさえ可能です。誰かが自分と似た壁に挑む前にその登り方を伝えることができます。
こんなにもパッと利点が思いつくのだから、失敗も案外悪いものではないのかも知れません。当然、一回の挑戦の結果で失敗が成功に勝ることはないし、成功は気持ちを高めてくれることもあるから、失敗は手を抜く言い訳には決してならないのですが。でも、負けると一ポイントも得られないプレミアリーグとは違って、人生では多分失敗にもポイントが与えられます。成長として、二ポイントくらい。
ただ、最後に、ここまでの話は全部将来で幾多の経験が約束されている僕たちに限って当てはまる話で、やはり、限られた挑戦の機会を持つ人の成長のために自らの失敗を活かす義務が僕たちにはあります。この大きな挑戦を始めるきっかけをいただいたTazaki財団の皆さんへの感謝は日々募るものです。イースター休暇中にお話しする機会をいただいた7期のHさんのポジティブな姿勢も見習いながら、これからも精進します。