お知らせ

Sさん(男生徒) 国立筑波大学附属駒場高等学校

イギリスの大地に足を踏み入れてから四ヶ月が経ちました。

イギリスに来てからは、まずホストファミリーのところに一週間ほど泊まりました。全てが初めてのイギリス生活ですが、意外にもその始まりは穏やかで、嵐の前の静けさにすら感じられました。日本にいた頃はコーヒー党でしたが、ティーもありだなとなっています。紅茶とレモンジンジャーが好きです。建物、ご飯、庭の土、全てが 16 年育った日本から 10000 km 離れた土地のものであるのに、こんなにも穏やかな気持でいられる、考えてみるとこれはとても不思議なことだと思います。

学校生活が始まってから、何もかもが新しいのですが、何を書こうとなると難しいです。ただ、価値観の相対化みたいなことはできていて、それはとても重要なことだと感じています。心配していた友人関係ですが、自分の寮の Year 12 が偶然にもとても人数が少ないこともあって、寮の中ではとても仲良くやれています。Day Students も、特に同じクラスの人とはよく会話するのですが、話題があちこち流れていくグループトークになると、やはりついていく難しさを感じます。

Bath は歩いているだけで心が落ち着きます。東京では、ビル街の広場のような場所が自分の好みなのですが、こういう街も悪くないなと思っています。綺麗さ自体は飽きるのですが、百年単位でのこる建物だらけの街が大勢の人で賑わっているという光景は、自然要因もあり日本ではなかなか見られません。このような場所にいると、人間の歴史を感じて謙虚にさせられます。(逆に、例えば新宿の夜を歌いながら歩いていると、夜景に酔うような全能感が感じられて、どちらも大好きです。)

言語について考えることが増えました。日本語で会話をするときは、心の中の全てを、自分の言葉に流すことができます。人は、少なくとも私は、会話の中でそこまで多くのことを考えていないからです。もしくは、会話をするときは思考自体も言語で行っていて、表現をするのも簡単なのでしょう。それでも、英語で話すときは、言語のラリーを続けること自体がある種のゴールのようになってしまいます。自分の頭の中にはもっと表現したい色彩がありながら、今の英語力では、もどかしさを抱えたまま会話を終えるしかありません。(追記 - 英語で話しているときは思考が英語に制限されて、表現したいと潜在意識にあるニュアンスの欠片を頭に描くことすらできず、むず痒いのかもしれない、と思い至りました。)

文章を書くときは、もっと多くのことを考えます。全てのことを言語で考えているわけでもないでしょう。というわけで、日本語ですらボトルネックになっているということを、いま久しぶりに実感しています。そして、これらの感覚はとても似ていながら、イギリスに来るまであまり意識していませんでした。

また、日本にいたときよりも、良くも悪くも手持ち無沙汰になる時間が増えて、興味が広がったような気がします。中学に入ってから自分の興味を CS だと思っていたのですが、ある意味自分に言い聞かせていたのかもしれません。もちろんそれが興味の対象なことに違いはないですし、受験も Maths and CS の学部を中心にする予定ですが、趣味としてもう少し広い分野にも目を向けるようになりました。最近は哲学系の本を読むなどしています。

それに加えて、日本への想いが強くなったと感じます。昔からぼんやりと考えていたことですが、今は、国家としての日本に関わり、少しでも良い方向へグランドデザインを描く仕事を、人生の中でしたいなと思っています。(どのような形になるかはわかりませんが。)

最近は主に米企業による Generative AI が恐ろしく成長しています。例えば Maths Olympiads 的な問題は割と解かれてしまって、私達が知性だと思っていたものが、実はただの統計に過ぎないと突きつけられているようです。研究のような活動が、人工知能にとっての難しさの観点でこれらと本質的に異なるのか、私にはよくわかりません。受動意識仮説、もし私達の意識が脳の物理的な統計処理からの後付けだとしても、畢竟、私にとっての世界の価値は意識なしには成り立ちません。彼らが私のできることを全てできるようになる前に、世界に何か素敵だと思えるものを残せたら良いな、と思います。

中途半端になるトピックが多いのであまり具体的なことについては書けませんでしたが、次回のレポートではそのあたり、特に Academic なことについても触れたいと思っています。