お知らせ

Oさん(男生徒)都立桜修館中等教育学校出身

留学生活が始まり、早一年が経過してしまいました。日本のむせかえるような暑さとは一転、半袖はおろかジャケットを着ていないと寒いとさえ感じるスコットランドの夏に驚いている今日この頃です。今回のレポートではこれまで同様、経過報告とこの期間に思ったことを綴っていこうと思います。

まず夏タームですが、やはりpredicted gradesを決定する最も大きな要因となる試験が強く印象に残っています。たまたま自分のいる学年の数学のクラスのレベルが例年よりも非常に高く、math, further mathのカリキュラムのほとんどを一年で終わらせるという狂気の詰め込みにより数学の復習にかなり時間がかかってしまいました(少人数教室であることの恩恵であるとありがたく感じてもいます)が、「来年のA levelのための貯金」というモチベーションのもと集中して臨めたため、すべての科目で望んでいたpredicted gradesをいただくことができました。学業以外の面では、テニスのチームに入り対外試合にいくつか参加しました。Fettesでは、夏タームになると前タームまでホッケーのコートとなっていたスペースが改修され、12面のテニスコートがキャンパス内に作り替えられます。これに仲間のレベルが比較的高かったことも相まって、自分のテニスのスキルを見直すいい機会となりました。
夏休み中は二つのサマースクールに参加しました。一つはsenior physics challengeという招待制のサマースクールで、isaac physicsという物理生徒向けのウェブサイトにて解いた問題数の多い上位50名がケンブリッジのチャーチルカレッジで一週間弱講義を受けるというものでした。内容は量子力学がメインで、力学の実験や流体力学のイントロのような講義も受けることができました。このサマースクールは生徒、先生ともに非常にレベルが高く普段抱いていた物理に関する疑問を議論し深めるいい機会となりました。また、ケンブリッジの教授陣のレベルの高さ(というと少し烏滸がましいですが)を改めて認識し、世界的に認められている大学に行くことのメリットの大きさを体感することができました。もう一方のサマースクールはオックスフォードで行われており、こちらは基本的に大学生向けのコースであったため今まで触れたことのない内容が多く、与えられた問題を解くことに重きが置かれている高校生の物理とは異なる「大学での物理」を知るいい機会になりました。

さて、今回は人種についてすこし思ったことを書こうと思います。私は昔から日本人学生が留学する一番のメリットは日本人以外の人種の中に身を置けることであると感じていました。それは、同人種が約97%を占める日本の学生が、他の人種の存在をリアリティを持って知ることができるからです。陸続きの異国がなくほぼ単民族単文化の中で生活している日本の学生にとって他の人種と いうのはテレビの向こうの話あるいは教科書で習う話程度に感じてしまっても何もおかしくはありません。生涯を日本国内で過ごすならばこれは大した問題でないように感じますが、四方八方から「グローバル化!」などど叫ばれている今日においてはそうもいきません。では、具体的に何を学べばいいのかということですが今回は私がこの留学生活中にその環境下で学べたことを書いていこうと思います。当然ですが今回書く話はすべて個人的な経験や知識に基づいたものですので、一意見として理解していただきたいです。
まず、「人種」や「民族」といった言葉が指す意味にしっかりと気を配るべきであるということです。これらの言葉はその強い相関関係から細かい意味の違いを気にせず使われていることが多くあります。しかし個人的には現代でいう「人種」は先天的に与えられた特徴による区別、「民族」は後天的に与えられた特徴による区別である、と認識すべきであると考えます。というのも、人種は異なれど文化や背景を共有しほとんど同質な集団をイギリスに来てから多く目にしてきたからです。考えてみれば至極当然のことで、例えば共通の言語、関心を持つが自分と外見が大きく異なる人と言語も関心も大きく異なるが自分と外見が似ている人とでは前者の方が友達として居心地がいいでしょう。つまり、人種的な枠組みというのは本来民族的な枠組みよりも個々人レベルの規模ではそれが持っている意味は弱いはずなのです。そうであるにもかかわらず、人種差別の方が世界的に関心が高い(気がする)のはそこに根ざしている歴史の深さと規模の大きさが関係しています。ヨーロッパ諸国による植民地支配の動きが拡大し、白人と他人種との交流が盛んになった頃、白人がその地域での支配を強めるために人種によるヒエラルキーというシステムを発明しました。この時代に限った話ではありませんが、国民を団結させ指導者の思い通りに動かすために、支配の対象にある「物語」を信じさせるという手法がよく用いられてきました。この「物語」を代表するものに宗教があります。例えばキリスト教においては聖書に書かれていることをベースとした思想を人々に広めることで時には協力や平和を仰ぎ、時には戦争を正当化してきました。人種差別というのもその「物語」の一つで、「あの人種は我々よりも劣っているから啓蒙しなくてはならない!」、「あの人種よりも優れている我々には彼らを利用する権利がある!」などといった特段根拠のない物語を信じさせることで堅牢な支配と搾取の動機を一挙に手にしてきたのです。このシステムが世界中のあらゆる場所、時代において利用されてきたために人種問題は世界に深く根ざしているのです。
ではなぜ現代ではこの人種の利用をやめさせる動きが主流なのかというと、私は搾取の必要性が大きく下がったからだと考えています。奴隷労働や搾取が盛んだった頃、世界全体としてのリソース は限られたものでした。故に誰かが豊かになろうとすれば誰かが苦しい思いをしなくてはならない状態、いわば小さいホールケーキをみんなで分け与えるような状態でした。このような状況下では誰かのケーキを奪うことでしか自分の分前を大きくすることができなかったために搾取が横行していたのです。しかし、技術の発展とともにホールケーキ自体を大きくする手法を身につけたために、他人から奪うことをしなくとも自分が満足するだけのケーキを食べられるようになったのです。これが世界大戦中の印象的な人種差別の歴史に助長され、世界的なアンチ人種主義の流れができたのだと考えられます。このアンチ人種主義は教育によって成し遂げられようとしています。現在の元黒人奴隷依存国における「ネグロ」という言葉の威力はこの教育の賜物とも言えるでしょう。
これら一連の流れを知って日本人として何を思うのかというと、やはり我々の多くは当事者意識が欠損しているということです。民族間での違いによる差別は学校やグループ内でのいじめに近いものがあるのでその延長線上にあるものとしてある程度理解はできると思うのですが、異なる人種の存在というのが日本人にとってあまりに異質で新鮮なものなのです。頭では理解できても心が追いつかない、といった状況でしょうか。それ以上に関心も低いように感じます。日本人にはどんな差別の歴史があって今どのくらい差別を受けているかなどを知っている人は、日本国内の歴史を事細かに説明できる人よりも少ないでしょう。留学することの意義の一つはこういった世界のあり方をもう一度その背景から見直すことができることなのだと痛感することができた気がします。