ターム中は一つ一つの授業が永遠かのように感じられましたが、クリスマス休暇に入り渡英以降を振り返ってみると一瞬の4ヶ月でした。余りに月日が過ぎ去るのが早くて、この調子で行かれると留学期間の5年どころかあっという間に寿命を迎えてしまうのではないかと気が気でない今日この頃です。このレポートでは、学校での様子とイギリスでの生活を通して得た雑感の2パートに分けて書いていきます。
1.パブリックスクールの勉強
A levelの説明は誰かがしてくれていると思うので省くとして、より具体的に勉強の様子について書きたいと思います。
Fettesの授業は40分×8コマ、週6日で行われます。とはいえ、1科目につき週7時間しかないので半分以上は空きコマです。こう言うと非常に聞こえが良いですが、空き時間には宿題や復習、あるいは興味のある分野についての調べ物といった何かしら勉強に関わりのあることをしているので決して遊んでいる訳ではありません。
僕がA levelで選んだ科目は地理・経済・数学です。Tazakiには今までA levelで地理を取った人はいなかったようなので、地理のことを中心に書きます。
一般に、文系科目を英語で学ぶのは理系科目のそれより難しいという認識があると思います。数学や化学なら記号・式や実験などを見ればある程度意味するところが掴めますが、論説や概念を扱うことが多い文系科目は基本的に言葉に頼るしかないのでより言語能力が求められるからです(理系の方々、煽ってる訳ではないですよ)。
実際にイギリスで地理の授業を受けてまず感じたのは、学ぶ内容が非常に細かく深いという点です。これは3?4科目しか勉強しないことの最大の利点です。
例えば、海岸地形といえば日本の地理だと地形の名前(砂嘴だとかリアス式海岸だとか)と形を覚えてほぼ終わりです。しかしこちらではまず海岸という環境の枠組みを考え、次にそのシステムに影響を及ぼす要素(侵食・風化など)を一つ一つ学びます。その後にようやくそれぞれの要素がどう噛み合ってどのような地形が形成されるのかに突入し、最後はそれらを全て繋ぎ合わせてエッセイを書きます。日本ではそこそこ地理は得意なつもりでしたが、こうして体系的に学んでみると自分は何も知らないに等しかったことを思い知らされました。日本では高校生までほぼ全科目を必修として学ぶためどうしても専門性を持ちづらくなりますが、こちらでは早い段階から科目を絞って、自分のやりたい勉強を深く進めることができるという点で非常にいいです。
そんな中で一番苦労するものといえばエッセイです。A level試験で出題されるエッセイは長いものだと16 marksで、A4用紙2枚分くらいの量を20分前後で書きます。分量もさることながら、多くの場合ケーススタディ(具体例)と絡めて書かないといけないので、様々な地域の地形について詳しく知っておく必要があるというのも大変なポイントです。
経済もエッセイがメインで似たような感じですが、よりロジカルに考える力と、実世界に合わせた「常識的感覚」が必要とされていると感じます。
一方、数学は日本のカリキュラムの方が進んでいるのでほとんど苦労しません。お陰様で、半年前まで数弱だった僕が数学の全国コンペティションで満点を獲り、数学オリンピックの予選に進むという一生できないと思っていたような経験をさせて頂きました。
成績はEffortという学習態度の面とAttainmentという能力面の2種類で算出されます。一番大事なのは各教科の先生が判断するTarget Grade(このまま行くと1年後のA level試験でどのくらいの成績が取れるかという目安)です。これは先生の主観も入ってくるので中々難しいですが、来秋の大学出願において重要になるので今後とも気を抜かず頑張りたいところです。
2.雑感
イギリスで言うパブリックスクールとは、その名に反して名門の私立学校のことを指します。これはかつてキリスト教の教会などで地元の子供を中心としてlocalに教育を行なっていたのに対して、イギリス全土からpublicに生徒を集める新しいタイプの学校のことをpublic schoolと呼んだからです。
そんなパブリックスクールですが、この種の学校に通う生徒は割合にして年代あたり僅か7%しかおらず、あとの93%の子供はstate school=公立学校に通っています(あるいは学校に行っていない)。それにも関わらず、私立出身の生徒はOxbridge進学者のほぼ半数を占めています(2016年時点でCambridgeの38%、Oxfordの42%)。最近は大学側もstate schoolからより多くの生徒を受け入れる制度(最低でも合格者の○割は公立出身にする等)を採っているためこの数字は減少傾向にあるようですが、現状は単純計算すると私立学校の生徒は公立学校の生徒より9倍近くもOxbridgeへ行ける確率が高いということになります。
これはただ「パブリックスクールの教育はとても優れている」というだけで片付けてはいけない話だと思います。では、なぜこのような歴然とした差が存在するのでしょうか。
イギリスの教育格差を語る上で外せない要素が「階級」です。
イギリスは今も色濃く社会階級の影響が残る国です。その一因は、18世紀以降ヨーロッパ大陸で起きたような社会体制をひっくり返す出来事がイギリスでは起こらなかったことにあります(17世紀のピューリタン革命によって一時王政が廃止されますが、すぐに頓挫しました)。なのでイギリスは今でも王政を保っていますし、議会も選挙で選ばれる庶民院とは別に女王に任命された貴族だけで構成される貴族院というのが存在します。
階級は大きく3つに分類されます。上流階級、中流階級、労働階級です。上流階級は爵位持ち、王族や貴族といった人々のことです。中流階級は幅広く、医師や法律家といった専門職・公務員・サラリーマンなどが含まれます。労働者階級は主にブルーカラー労働者のことで、他にもサービス業に従事する人々などを指します。
階級とは必ずしも経済力と比例するとは限りません。上流階級でも落ち目にある家は金持ちの中流階級より所得が低かったりしますし、中流階級の下層部と労働者階級のトップの間にも逆転現象がしばしば見られます。イギリスにおける階級とは、文化の違いです。例えば、上流階級と中流・労働者階級では英語のアクセントもかなり違います(いわゆるQueen's Englishというのは上流階級や上層中流が喋る英語)。また上流階級が田舎暮らしを好み自然に親しむ趣味を持つのに対して、都市に住む労働者階級は仲間とパブに集いスポーツ観戦や賭け事に興じます。階級によって読む新聞やメディアも違います。更に街によっては住む地域も大まかに分かれています(ロンドンだったら西の方が上流階級の住む一軒家やフラットの建つ高級住宅街、東の方は労働者階級が多い高層マンション街)。このように、それぞれの階級が全く異なる文化を形成しているのです。
その「文化の違い」の一つが教育です。上流階級や上層中流階級は子供に自分と同じような教育を受け、将来的には自分と同じような専門職や管理職に就いて欲しいのでパブリックスクール、ひいては一流の大学に入学させます。そしてそのために必要な経済的余裕も十分にあります。
一方、一般的な中流階級?労働者階級にはそもそも子供に高等教育を受けさせたい(受けたい)という考えがあまりありません。最近でこそ大学進学がより普通の選択肢になってきましたが、1990年頃のイギリスでは大学に進む人の割合は僅か30%でした。この階級では教養よりも働く上で実用的な能力の方が求められるため、彼らにとっては義務教育の期間はstate schoolに通い、その後は早い頃から見習いに出たり就職したりするのが普通なのです。もちろん上流階級に比べると教育費を払える余裕のある家庭が少ないのも理由の一つですが、それ以上に高等教育が「必要とされていない」というのが大きな要因だと思います。
まとめると、私立と公立でここまで差が出てしまう理由は教育に対する意識の違いにあります。よりよい教育を受けさせたい上流階級のためのパブリックスクールに、労働者階級が義務教育を受けるために通う公立学校が実績で敵うはずもありません。またパブリックスクールが裕福な家庭から高い学費を取って質の高い設備や教師に投資できるのに対し、公立は国や自治体から下りる予算に頼らざるを得ないのでインフラや教育の質には限界があります。
このように階級ごとに受ける教育が大きく異なることで起きる問題は2つあります。
一つは、一流大学で勉強したいと望む中流階級や労働者階級の子供です。彼らは奨学金などを取らない限りは公立に通うしか方法はありませんが、前述のような公立の環境でパブリックスクールの生徒たちに立ち向かうのは至難の業です。"人権"や"個人の自由"が尊ばれるようになった近年では、労働者階級出身でも周りのステレオタイプを抜け出し名門大学を出て専門職の資格を取る人なども増えてきているようですが、それには相当な個人の努力が必要になります。
もう一つは、そもそも勉強したいという意欲を持つ子供が下層中流や労働者階級には少ないということです。この階級の大人には高等教育を収めた人はあまりいません。彼らはただ働き、稼ぎ、そのお金でパブに行くなり好きなことをして生きています。そんな環境で育った子供がいきなり「大学では○○を勉強して将来は○○になりたい!」と考えるようになるでしょうか。可能性は低いでしょう。結果、階級差が世代を超えて引き継がれていってしまうのです。
どちらの場合も、生まれる階級によって本人の素質や適性を見ぬまま受ける教育、更にはその後の人生までほとんど固まってしまうというのが大きな問題です。これらは個人にとっても不幸なことですが、ポテンシャルを持った人材が階級差によって埋もれてしまい才能を発揮できなくなるという点で、社会全体にとっても大きな損失となります。
一方、日本ではどうでしょうか。日本はかつてこそ身分社会でしたが、現在では皇族を除き階級といえるほどのものは残っていません。ほとんどの人が同じような文化を共有し、同じような人生の選択肢を持っている…ように見えます。教育の面で言うと、私立と公立の差はイギリスのそれよりずっと小さいですし、受験という実力だけで評価される完全競争の舞台があるので努力次第でどんな可能性も開ける…ように見えます。
しかし、それは本当でしょうか。本当に今の日本は努力次第でどうにでもなる社会でしょうか。僕は違うと思います。
まず、当たり前ですが経済的な不平等が存在します。しかし近年では特に、経済格差がそのまま結果の差に結びつくということが多くなっていると思います。受験競争が激化している昨今、(特に首都圏では)塾なしでトップ校に挑むのはかなり厳しくなっているからです。今や3年前や4年前から塾に行く人も珍しくありません。しかし、皆さんご存知の通り塾というものは金がかかります。それを全部払う余裕がある人はいいですが、そうでない人は個人で受験を乗り切ろうと頑張っても中々上手くいかないことになります。
また、イギリスと同様に親や周りの人の意識も大きく作用します。育った環境によって大学に行くなんて夢にも考えない人、行こうと思っても周りの圧力に屈して止めてしまう人、行きたくもない大学に行かされる人…様々なケースが考えられます。
3つ目に、地域格差が存在します。首都圏には学校も塾も数え切れないほどありますが、地方にはそんな贅沢な選択肢はあまりありません。つまり機会の不平等です。学校の数が少なければ必然的に学校へ行く人数も少なくなる訳で、高校を出たら大学へ行かずそのまま働き始める人も多いのです。イギリスの労働者階級のように。東京の皆さん、日本の大学進学率は高々50%だって信じられますか?首都圏の高校生にとって「大学に行く」というのは当たり前、必要最低限だという認識かもしれませんが、そんな考えは日本国内ですら通用しないのです。そんな状況にも関わらず、未だに日本は首都圏一極化の道を突き進んでいます。人、政府機関、学校、企業、文化、経済、何から何まで東京に集まる一方、地方では過疎化が進みシャッター街が並びます。これを格差と呼ばずしてなんと言うでしょう。
つまり、生まれというどうしようもない要素で将来が決まってしまうという点では日本も階級社会と同じです。平等化が進んだように見える現代社会も全く格差とは無縁ではないのです。
勿論、格差がない社会なんてあり得ません。共産主義の理想形はまさにそれですが、あくまで机上論です。
では格差の悪影響を最小限に抑えるにはどうすればいいのでしょうか。僕は「可視化」が第一のステップだと思います。自分の生きる世界とは違う世界があることを知る。これだけで意識がグッと変わります。
Noblesse Obligeという言葉をご存知でしょうか。自分の成功を自分だけの力で得たものと考えず、社会に、そして良い境遇や環境に恵まれていない人に還元するという考え方のことです。この言葉は、古くからイギリスやヨーロッパの上流階級の間で尊ばれてきました。彼らは自分たちが良い家柄に生まれ、ひとえにその生まれのお陰で良い教育を受け、望むような職に就き、良い暮らしを送れているということを自覚していたからです。言い方を変えると、階級差が今より顕著だった頃は上流階級がその格差を理解していたからこそNoblesse Obligeのような考えが生まれたのです。
けれども、最近はヨーロッパでもそのNoblesse Obligeの風潮が薄れてきていると思います。その理由は、平等を掲げ公平な競争を推し進めるという時代の流れです。しかしながら、先程述べたように、平等を標榜する社会においても格差は必ず存在します。つまり公平な競争をしているつもりでも、努力云々以前にスタートラインで差がついてしまっている訳です。その差が可視化されていないと、競争に勝った者は自分の努力によって勝利を掴んだと勘違いしてしまいます。学歴マウント・年収信仰などはそのいい例ですね。好成績=自分すごいという逆Noblesse Obligeの発想です。そうさせないために必要なのは、「幸運な」勝者たちにスタートラインの時点で彼らがどれだけアドバンテージを持っていたのかを気付かせることです。それは経済力かもしれませんし、生まれた階級かもしれません。或いは育った場所かもしれないし、ただ単に運かもしれません。どのような形であれ、成功を掴んだ人には必ずそうした「自分の力ではどうしようもない要素」が作用しているのです。
逆もまた然りです。先程書いたように、労働者階級の子供はロールモデルが自分の周りの大人しかいません。そのため彼らはそれ以外のライフプランが存在するなんて考えも及ばず、親と同じような道を辿るだけになってしまうのです。確かに、下層階級にとって上流階級の暮らしを直視するのは痛みを伴います。しかし、特に子供たちにとって、そのような全く別の世界が存在するということを知るのは将来の自分のあり方に大きな影響を与えます。可視化をきっかけに向上心を抱き、成功する者も出てくるはずです。
つまり、格差の可視化は「下層階級の底上げ」と「上流階級の歩み寄り」の両方につながり、その結果として階級同士の差が一気に縮まる(より流動的になる)ことが期待できます。"平等な"社会に一歩近づくのです。
しかし格差と同様に現代社会の問題となっているのが「分断」です。類は友を呼ぶ、とも言うように人間は同じようなバックグラウンドや思想を持つ人とグループを形成します。現代はオンラインという悪しきツールが登場したことでよりその傾向が強まってきました(ポピュリズム、人種差別、ワクチンを巡る陰謀論…どれも、不安を持つ人がオンラインで同じような考えの人とだけ触れることによってエスカレートした結果です)。その結果「階級」や「格差」を越えた人同士の交流は希薄になり、いつまでも可視化という目標は達成されません。
パブリックスクールは「分断」の最たる例です。世界でも随一の恵まれた家庭で育った子供たちが集まり、大半が名門大学へ進み、他階級出身者とほとんど関わることなく生活を送る…そんな彼らは、労働者階級の子供の暮らしを考えたことがあるのでしょうか。自分たちがどれだけ恵まれているのか気付いているのでしょうか。Noblesse Obligeの教えは、本当に彼らに響いているのでしょうか。残念ながら、そうではないと感じるシーンが少なくありません。今必要なのは言葉だけの教育と知識ではなく、身を持って異なるバックグラウンドを持つ人と交流し、自分の知らなかった世界を感覚で深く理解することだと思います。その経験こそが見えない格差を浮き彫りにし、勝者の驕りに歯止めをかけるきっかけになるのではないでしょうか。
「知らない世界を知る」。これは僕自身が留学して何度も経験してきたことでもあります。パブリックスクールという超特権的環境で僕のような一般日本人が学び、生活し、「交流」できることの意義は余りにも大きいです。貴重な、そして自分の力だけでは決して得られなかったこの機会に感謝し、ここで得たものを社会に還元できる人間になれたらと深く思う次第です。
参考
https://www.theguardian.com/education/2019/jan/13/public-schools-david-kynaston-francis-green-engines-of-privilege
パブリックスクールへの問題提起を投げかける記事(ちなみにヘッダーに使われている写真は我らがFettes Collegeです。特権階級の象徴のような校舎なので…)
https://www.theguardian.com/education/2017/nov/21/english-class-system-shaped-in-schools
労働者階級出身でケンブリッジ大学教授にまでなった方の文章
https://president.jp/articles/-/28421?page=1
数年前話題になった、上野千鶴子氏の東大入学式祝辞に関する記事(Noblesse Obligeにかなり近い話をしています)
https://www.businessinsider.jp/post-248686
家庭環境が子供の将来にいかに影響を及ぼすかという記事
https://note.com/__carpediem___/n/nba61eb70085a
ある高校生が書いた、地方と都市部(東京)の格差についての文章
The Tyranny of Merit(邦訳 : 実力も運のうち) by Michael Sandel