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Bさん(男生徒)国立筑波大学附属駒場高等学校出身

イギリスでの生活が始まって早8カ月が経ちました。日照時間が長くなってサマータイムに切り替わったり、ここは日本かと見まがうような桜並木を見つけたりと、この北緯56度の地でも春の気を感じます。
前回のレポートと同様に、今回もイギリスでの生活の様子(英語について)と日々の雑感の2つに分けて書きたいと思います。

1.英語について
渡英するまでの数ヶ月間で語学研修や英語でのオンライン授業を受けていたとはいえ、実際こちらに来て英語漬けの日々に慣れるまでにはだいぶ時間がかかりました。
まず大変だったのは、日常会話で使う言葉(口語/スラング)に慣れることです。日本で勉強していた英語はフォーマルやアカデミックな用法が中心だったこともあり、授業内容を理解するのに困ったことはほとんどありません。しかし一方でスラングで溢れている同級生との会話についていくのには非常に苦労しました。
また英語には文法形式としての敬語は存在しませんが、一般的に先生など目上の人に話す時は同年代の人に話す時と少し違う言い方が必要になります。例えば文末に"Sir"をつける(女性相手ならMa'am)、略語(例; because → coz)は使わない、丁寧な言い回しをする(例; Can you~? → Would you mind~?)などです。これも始めの頃は理解できていなくて、思い返せば随分失礼な態度をとっていたなと反省している次第です。
そしてトリッキーなのはスコットランド特有の訛りです。スコットランド訛りの特徴としては "r" の音を巻き舌気味に発音する・連母音をつぶして発音する(ei ;エイ → i? ;イー等)の2つが主にあり、イングランドで聞く英語とはかなり異なります。Fettesにはイングランドの人や留学生も多くいるので学校内ではほとんど訛りは聞きませんし、授業を聞いたり日常生活をする上ではなんの支障もありません。しかし、一歩学校から出ると(ホストファミリーのところに滞在している時など)強い訛りにも頻繁に出くわします。始めの頃は全く聴き取れなかったのでこれは本当に英語なのだろうかと疑ったりしたこともありましたが、徐々に順応してきています。最近では逆に綺麗すぎる正統派イギリス英語を聞くと違和感を覚えるまでになりました。

予想に反して、英語の知識や語彙が一気に増えたかというとそうではないと思います。実際に初級中級レベルの単語でも分からないものはまだまだたくさんありますし、表現(イディオム)の幅なんかも非常に限定的です。しかし、既存の知識を組み合わせてアウトプットする力・会話の中ですぐに(半ば反射的に)英語で返答する力・そして長時間に渡って英語で文章を読んだり話を聞く持久力、主にこの3つの力が留学することを通して特に伸びてきたと感じています。英語圏で英語を鍛えるというのは例えると毎日24時間ぶっ通しで筋トレをしているようなものですから、日本の頃と比べると自分でも相当な成長を実感しています。最近では洋書 - 参考書などではなくただの小説ですが - を読むことにハマっていて、こうしたインプットの量を増やすことで自分の懸念材料である語彙の増強に役立てることができるのではないかと期待しています。
Oxbridgeをはじめ各大学の出願には、IELTS試験で一定以上の成績を収める必要があります。去年3月に同試験を受けた時は規定の成績には程遠い状態だったので、秋口までには問題なくパスできるように今後とも日々勉学に励みたいと思う所存です。

2.雑感(集団と個人について)
僕は日本にいた頃、いわゆる"集団行動"というものが大の苦手でした。式典などのmm単位で揃えるお堅い行事に始まり、周りと同じことをさせられたり体裁ばかり気にする人々に振り回されたりと「空気を読め」という圧力の連続。極め付けは「今のうちにそれ(集団行動)ができないと社会に出てから困るよ」という教師の発言です。自分の中学時代の卒業文集の草稿にはこう書かれています。

“子供は大人の都合に振り回され、逆らえば抑圧される。個性は潰され、ロボット人間が大量生産される。一体どこぞの社会主義国家だろうか?”

この草稿は提出後に学校側にとって都合が悪いということで書き直させられたのですが、そういうところまで含めてこの一文は義務教育の9年間を通して自分が感じ続けた「息苦しさ」を象徴しているように思います。
高校に入ってからは筑駒の校風のお陰もあり自由を満喫していましたが、それでもずっと引っかかっていたのは「社会に出てから困る」というあの発言です。そんな社会に留まって、小中学校で経験したような(或いはもっと酷い)息苦しさに一生耐えることができるだろうか?と自問しました。勿論そんなことできるはずがありません。ですから、僕にとってこの留学は勉強面だけではなく日本社会から脱出するという意味合いも持っていました。

実際にこちらに来て違いを感じた点は3つあります。
一つ目はやはり他人からの評価をほとんど気にしないという性格です。一般的に日本人というのはとかく周りのことに気を使いがちです。ですから我々は人前での失敗を極度に嫌いますし、自分のことより他人がどう思うかを気にする傾向があります。ところがここではほとんどの人が(いい意味でも悪い意味でも)そうした感情を抱きません。例えば、よく言われるように教室での積極性は特に高いです。全然答えが分からなくても取り敢えず何かを言ってみる、間違えていたとしても気にせず次も同じように発言する、といった具合で失敗に対しての恐れというものがありません。また他人の意見に迎合せず自分が思ったことをそのまま貫く(或いはそれを外部に発信する)こともよく見る特徴です。寮対抗のディベート大会があったり、学校のディベート代表が全国コンペティションに出場したりと議論をする舞台が豊富に用意されている影響もあるのか、個人レベルでも自分の考えをしっかり持ち、それについて論じることを当たり前とする空気があります。以前参加したOxbridge Sessionという集まりでは、Oxbridgeのインタヴューで出題されるような質問(人間は将来他の惑星に移住するか?/貧困を無くすことは可能か?など)に対して10人程度で自由に議論するという機会がありました。質問自体も非常に興味深かったですが、それらに対して様々に意見を述べている人々を見て自分の足りなさを痛感しました。もちろん言語の壁というのは非常に高いですが(専門用語なども交えて論理的に話さないといけないので)、それを差し置いても質問を見て即座に口が回り始める人などを見ると自分自身の意見を持つ・それをまとめて発信するというプロセスの速さに圧倒されます。
しかしこうした見習いたいと思う部分もある反面、それが行き過ぎて(少なくとも日本人の目線からだと)あまりに周りへの気遣いがなってないと驚くような場面にも遭遇します。例えば前述の「思ったことを言う」というのもシチュエーションによってはただ悪口を吐き出すだけであったり、他にも夜中に音楽を爆音で流す・自分が使ったものの後始末をしないなど最低限のモラルすら備わっていないと感じることもままあります(僕が気にしすぎるだけなのかもしれませんが)。
それはお国柄だけではなく個人の育った環境などもあると思いますが、そうした良い面も悪い面も両方見てきた中で「周りを気にしない」というのはあくまで他人との受動的な関わり ー 自分への評価・視線など ー に留めるべきで能動的な関わり ー 自分自身が話す内容、行動など ー には十分気を付ける必要があると思いました。日本では受動・能動どちらも他人を気にしすぎるし、イギリスでは逆にどちらも気にしなさすぎると感じる時があります。その中間、個を持ちながら周りとも程よい関係を保つ、そのようなあり方が理想的なのではないでしょうか。

二つ目に、先生たちに個人主義の意識が根付いていると感じます。日本の学校の場合だと逆に連帯責任やら協調性の大切さやらを先生や文部科学省といった上の人間が頻繁に押し付けてきます。いわゆる「社会学習」というやつなのでしょうが、当時の僕からすればそもそもそんなものが蔓延っている社会が理解できませんでしたし、綺麗事を盾にとって個性を抑え込もうとしているようにしか見えませんでした。
一方こちらでは、より生徒個人の裁量に任されている部分/自己責任が大きいように感じます。ボーディングスクールという性質上当たり前と言えば当たり前のことなのですが、先生側も生徒たちを集団としてではなく個人として見てくれていると思うことが何度かありました。よく考えると、全員共通のカリキュラムではなくそれぞれの生徒が自分の取りたい科目だけを選択するというGCSEやA levelのシステムからしてその風潮が見て取れます。また勉強のスタイルも先生が手取り足取り教えるというよりはかなり自習の比率が高く、自分がやればどんどん伸びるが逆にやらなければ分からないまま置いて行かれるというシビアな面も見えます。
他の例を挙げると、先日僕の所属する寮で不品行騒ぎが持ち上がり(詳細は伏せますが)、関係した生徒は最大2週間のdetentionを食らいました。その際に寮の先生がしたことはまず関わった人と関係ない人の特定と、関わった人だけを集めての指導でした。そんなの当たり前のことだと思う人もいるかもしれません。しかし、「班長だから」「学級委員だから」「同じクラスのメンバーだから」という何とも理不尽な理由で問題を起こした張本人たちと一緒に叱られるという経験を嫌というほどしてきている僕にとって、これは中々新鮮な体験でした。上で述べた班長・学級委員・クラスメートというのはいずれも僕という人間のステータス/役職に過ぎません。そうした「名」で人間を見るのではなくその「実」を見る、「集団の一員」としてではなくあくまで「一個人」として扱ってくれるところに心地良さを感じました。

そして三つ目は、自分の所属するコミュニティに強い誇りを持っているという点です。
例えば、Fettesでは頻繁に寮対抗のイベントが開かれます。僕の寮の人たちを見ると彼らはそうしたイベントでいい成績を残すことに異常なまでの熱を注いでおり、自分の活躍のためというよりは寮のために戦うという意識を持っています。
特に興味深いのは、この「寮のために」というのはよく言うような「クラスのみんなのために」とは種類が全く違うという点です。言うなれば、後者が集団の"構成員"を意識しているのに対して前者は"集団そのもの"を重要視しています。つまり、集団というものがある人々の集まりを指しており、その存在は構成員の存在ありきのものであるとするならば、コミュニティというのはその「枠組み」こそが本質でそのコミュニティを選ぶかどうかは個人に委ねられているということです。
だからこそ自分が「選んだ」コミュニティに対して強い思い入れが生まれ、寮のために貢献したいというマインドになるのではないでしょうか。もちろん、ほとんどの人はその寮を自分で選んだ訳ではなく学校側から割り当てられたところに所属しています。しかし、その決定を「受け入れる」というのも立派な選択の内です。さらに、日本の学校でいうクラスのように毎年変わるものではなく、一度入ったら卒業までずっと同じ寮にいるということもその意識を助長しています。
こうした学校教育の現場におけるコミュニティ意識の違いは、その後の社会生活においても影響があると思います。国単位のスケールで言うと、「仮に自国が戦争に突入したら国のために戦うか」といういわゆる愛国心調査(World Values Surveyの一環)では日本は「はい」と答えた割合が13%で最下位という結果になっています(一方イギリスは60%以上)。もちろんこの質問はかなり極端な上に複雑な要素が絡みますし、国のために戦わないからといって愛国心がないとは言い切れません。とはいえ、自国というコミュニティを守りたいという気持ちに大きな差があるのは見逃せません。また、地域スケールで見ても日本は住民同士や地域のつながりが(特に都市部では)欧米のそれと比べて稀薄であるというのはよく言われているところです。

こうした気付きから見えてくるのは、「和」を尊び(この表現はあまりにオブラートに包みすぎていると個人的には思うのですが)集団の利益を優先する日本のやり方と、個を大切にし、その上でコミュニティという基盤を通して他者と関わっていくイギリスのやり方の違いです。どちらが良くてどちらが悪いと評価することはできませんし、日本 vs. イギリスという構図に持ち込んで日本叩きをするつもりもありません。それぞれの社会にはそれぞれの特徴があり良さがあります。しかしながら両国での生活を体験した結果感じたのは、僕には圧倒的にイギリスでの生活が性に合っているということです。その点を発見できただけでもこの留学はすでに大成功と言えますし、このような機会を与えてくださった財団の皆様には感謝が尽きません。しかし世の中には、今属している社会から抜け出したくても抜け出せない人々が数えきれないほどいます。その中で先んじて「脱出」に成功した者として、よりよい社会を築くことに貢献するのがある種の義務(Noblesse Oblige)でもあると考える今日この頃です。

参考
https://www.worldvaluessurvey.org/WVSOnline.jsp - 愛国心調査(引用のデータは2017-2020 >> Willingness to fight for country)